アンディー・ウォーホール/スーパーノバ展示会

アンディー・ウォーホール/スーパーノバ展示会
Andy Warhol/ SuperNova

1960年代、マスメディアの圧倒的な繁栄により、アメリカ人の生活が根本的に変化し始め、雑誌、映画、テレビが生活の一部となり、メディアが産み出すイメージが人々の持つ価値観や人生観が左右されていく。 その変動に反映するように、ポップアートと呼ばれる進展的な芸術が形を成していくことになる。

 アンディー・ウォーホル(Andy Warhol )はこの時代のアメリカを代表する芸術家でポップアートの先駆者と呼ばれている。 コカコーラ、キャンベルスープなど大量生産により合衆国で共通化した製品、または、ハリウッドスターや大惨事など、アメリカ人がメディアを通じて魅了した、またはショッキングなイメージを巧みに取り上げ、特有の表現方法を見出すことにより、ウォーホルは芸術に対する概念を広げ、今日の現代美術に大きな影響を及ぼしたアーティストである。

 シカゴ現代美術館ではこの春から初夏にかけて、アメリカを代表するこの芸術家の個展「アンディー・ウォーホール/スーパーノバ」を公開している。この展示会はアンディー・ウォーホルがキャンベルスープで一躍名声をあげた後の1962年から64年に焦点をあてたもので、彼が芸術家として最も活力的な時代と呼ばれている。

 この展示会ではマリリン・モンロー、エリザベス・ティラー、エルビス・プレスリーというようなハリウッドの華麗なイメージを取り上げた作品と同時に、電子椅子、衝突事故、人権民運動での惨事を写した悲惨なイメージの作品とが平行して展示されている。 この展示会を廻るうちに、ウォーホルのテーマであるアメリカのアイコン、そして、メディアが生み出すイメージの影響の強さを改めて認識することができる。 また、この展示会では、ウォーホルがこの時代に芽生えた映画創作へ興味を表した幾つかのフィルム、また、絵画のテーマになったライフマガジン誌からのオリジナル写真もみられ、この芸術家の創作の過程がよく分かる。

 「アンディー・ウォーホール/スーパーノバ」展ではウォーホールの作品を通して、60年代のアメリカ人同様、今日の我々がいかにグラマーと惨事という両極端なイメージに興味を抱き、魅了させられるのか、そして、ウォーホルが他界して40年以上たった現在でも、彼の創りだしたアメリカのイメージが我々になぜ共感を呼ばせるのかを強く語ってくれる。


ウォーホルの生涯

 アンディー・ウォーホルは1928年、ペンシルヴェニア州、ピッツバーグ市に生まれる。 家族はスロバキアからの移民で、父は炭鉱場で働き生計をたてていた。 ウォーホルの両親は謹厳なカトリック教徒であったという。 9才の時、アンディーは猩紅熱.病にかかってしまい、以後の彼の健康に暗い影響を与えてしまう。 14歳に時に父が死去。 生活が極端に苦しくなるが、それでもカーネギー工科大学(Carnegie Mellon University)に進学し、1949年に卒業する。 

 卒業後、ニューヨークへ移り広告業界で成功する。 当時ニューヨークで一番にギャラが高いイラストレイターとして評判を集めるが、ダダリズムや一線で活躍している画家達の影響を受け、芸術活動に力を入れるようになる。 

 ウォーホルは1960年にイラストレイター業を辞め、コカコーラ、キャンベルスープなどの代表的なアメリカ製品、さらに、マリリン・モンローやエルビス・プレスリーなどメディアによって大衆が共鳴したイメージをモチーフとして絵を描き始める。 通常の絵画の方法を避け、広告業界で使われたシルクスクリーンという同じイメージを刷ることができる印刷テクニックを用いる。 

 また、ウォーホルは彼のアートスタジオをニューヨークのユニオン・スクエアー(Union Square)に定め、ファクトリー(The Factory)と名づける。芸術家が最初から終わりまで自分の手で芸術品を制作するという伝統的な過程を避け、スタジオを組織化し、従業員を雇い、流れ作業式に数多くの作品を生産することを試みる。

 美術界で名声をあげると共に、ウォーホルは音楽のプロデュースにも手を広げる。 ヴェルヴェット・アンダーグラウンドと協力し、デビューアルバムのプロデュースやジャケットデザインを行う。 また、ウォーホルは映画制作に強い興味を示し、数多くの芸術映画を撮り始める。

 そんな中、1968年に嘗ての従業員で友人だったバレリー・ソラナス(Valerie Solanis)に狙撃される。 この事件でウォーホルは重症を負ったが、命は取り留める。 

 狙撃事件の影響があってか、70年代以降に芸術活動は後退する。 裕福なパトロンからの依頼からしか絵画は描かなく、また、インタビュー誌などを発行することにより芸術活動からは遠ざかっていく。


 しかし、80年代には若い芸術家達に刺激され、再び絵画活動を開始する。 この時期、ウォーホルは既に、現代美術界を象徴する人物になっており、世界中で彼の展示会が開かれる。大衆の共鳴したアメリカのイメージを用い、アメリカを浮き彫りにした芸術家が、この時代には彼自身がアメリカのアイコンとなったわけである。

 ウォーホルは極度の恥ずかしがりやで、無口だったそうだ。 また、ホモセクシュアルであったが宗教を信仰し、暮れにはニューヨークのホームレス保護施設でボランティアをしていたという。

 58才で他界する直前に、ウォーホルが取り組んでいた作品のモチーフは、ダヴィンチの「最後の晩餐」であったそうだ。

シカゴ現代美術館、キュレーター、トリシアさんとのインタビュー

 「ウォーホルは『アウトサイダー』という眼でアメリカを見つめていました」 とシカゴ現代美術館、キュレーターのトリシア・ヴァン・エクゥ (Tricia Van Eck) さん。 展示会を廻りながら、ウォーホルの抱いたアメリカの概念を説明してくれた。

 貧しい家庭に生まれ、子供の頃から病気がちで、都会には馴染みが浅く、ホモセクシュアルということもあり、ウォーホルは他人と絶えず距離感と違和感を持ちながら育ち、彼の前に広がる世界を観察するようにアメリカをみていたという。


 「彼はメディアの存在にとても敏感で、大衆が好んだメディアからのイメージを、鏡に映すように、アメリカのアイコンとして取り入れ、彼の芸術に映しだしたのです」とトリシアさん。

 「多くの人々はウォーホルの作品を教科書、雑誌、コンピュータを通じて知っていると思いますが、オリジナルの作品を目の前にした時、おそらくは全く違う印象を受けるでしょう」 とトリシアさん。 ジャッキー・ケネディーの絵画の前で、実物と複製の違いについて述べてくれた。

 「絵具の付き具合、スクリーンの刷り具合、キャンバスの表面などの微妙な変化は実物を通じてしか見ることができなく、複製の画像では経験できません。 ですから、機会があったら是非、ウォーホルの作品を直接見て欲しいです」とトリシアさん。

 日本の芸術とアンディー・ウォーホルついて聞いてみると、トリシアさんは、実は日本には行ったことがないと断ってからこう応えてくれた。

 「この展示会を振り返ってみると、ポップカルチャーが繁栄している現在の日本を見ることができるのではないでしょうか。 もちろん、ウォーホルはアメリカのアイコンを浮き彫りにしたアーティストです。 しかし、60年代でのアメリカ人がミディアに抱いた魅惑と威力は、今日の日本人がポップカルチャーに向ける姿勢と共通点があるように思えてなりません。」

 さらに、トリシアさんは、「私には日本の芸術家、村上隆とこの時代のウォーホルが重なって見ることができます」と語りながら笑みをこぼしていた。

 トリシアさんの丁寧な説明と鋭いコメントに感銘し、アンディー・ウォーホル展のインタビューを終えた。


                                 文責:佐藤 昌克 / 写真:藤河 信喜


Museum of Contemporary Art (MCA)
220 E. Chicago Avenue
Chicago, IL 60611
(312) 280-2660


Reference
Tricia Van Eck; Curatorial Coordinator and Curator of Artists’ Books
Provided Materials from Museum of Contemporary Art
Andy Warhol/ SuperNova

Special  Thanks to
Museum of Contemporary Art
Tricia Van Eck; Curatorial Coordinator and Curator of Artists’ Books
Erin Baldwin; Media Relation Coordinator

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