アンネ・フランク:今日への歴史

「アンネ・フランク:今日への歴史」展示会(5/28/08まで)
Anne Frank: A History for Today



(c )AFF/AFS Basel/Amsterdam
アンネの日記

 「アンネの日記」は1942年6月12日、アンネリーズ・マリー・フランク(Annelies Marie Frank) の13歳の誕生日祝いに手渡された小さなノートから始まる。 小さな鍵がついた赤と白のチェッカー模様の可愛いノート。 誕生日の数日前、アムステルダムの店頭に並んでいたこのノートが娘のお気に入りであるのを知って、アンネの父親、オットーはこの日の為に購入したのだという。
 

 アンネがこのノートに綴った日記が出版されて、すでに50年以上経つ。 時代が移り変わるごとに、このノートに書かれたアンネの言葉は思春期の葛藤を経験する同世代に共鳴を呼び、多くの読者に自由と平等の尊さを促し、差別と偏見の醜さと迫害の悲惨さを語る。 また、この日記は世界中の生徒達が第二次世界大戦でのユダヤ人大虐殺(Holocaust)を学ぶ糸口になっている。

 さらに、アンネが歩んだ短い生涯は、南アフリカの人権民運動で囚われた、ネルソン マンデラ大統領 (Nelson Mandela)をはじめ、人種、国家、宗教の為に迫害されている多くの人々を勇気づけ、過酷の時を乗り越える心の支えにもなっているという。

 「アンネの日記」は現在でも世界中の人々に読まれている。 過去に翻訳された言語は55ヶ国語以上、出版部数は3000万部にも及んでいるという。 そして、これからもアンネが投げかける強いメッセージは多くの人々の心中に受け止められていくことだろう。

 「アンネ・フランク:今日への歴史」(Anne Frank: A History for Today)展示会は今年の春から初夏にかけて、スパータス博物館 (Spertus Museum) で開かれている。 この展示会はアンネと彼女の家族であるフランク家に焦点をあてたもので、「アンネ」という少女の生涯を巧みに描写している。 また、ナチスの配下の置かれたオランダの状態もフランク家の軌跡と隣り合わせに表示され、展示会の訪問者に当時の社会状況とユダヤ人がおかれた境遇を理解しやすく展示されている。

 この展示会はパネルとビデオだけによる展示会で、アンネに係わる「遺物」や「展示物」はない。 シンプルな展示会ではあるが、それぞれのパネルに大虐殺に関しての奥深いメッセージが残されている。 さらに、この展示会は第二次世界大戦のユダヤ人の迫害という「歴史の説明」だけに留まわらず、現代でも偏見による大虐殺は地球の各地で起こっているという鋭いメッセージも促している。


アンネの生涯

 アンネリーズ・マリー・フランクは1929年にドイツのフランクフルト・アム・マインでフランク家の次女として生まれる。 世代を通してドイツ国に貢献し、経済的にも豊かであったこのユダヤ人の家族は、ヒットラーの率いるナチスの繁栄とそれに伴うユダヤ人への迫害を恐れ、ヒットラーが勢力に立った1933年、祖国ドイツを捨てオランダに移住する。 

 当時、オランダは偏見による迫害は少なく、ユダヤ人にとっては生活しやすい国として知られていた。 実際、フランク家の大黒柱であるオットーはオランダに移ると、小さなビジネスをアムステルダムに創立し、経営は上向きになる。

 しかし、オランダがドイツに占領された1940年を境に、ユダヤ人への迫害が機能的に行われる。 公共場所の禁止、教育の阻止、外出時の制限、さらに、黄色い星のマークの着用要請など、ユダヤ人に対し屈辱的な法令が次々と強制される。 また、この時期、ユダヤ人の強制労働収容所への誘導も要請され、選択された多くのユダヤ人は否応無しに法令に従わなければならない状態におかれてしまう。

 迫害が押し寄せる中、フランク家は出来るかぎり家族として平温な生活を保とうとするが、1942年7月5日、一通の手紙が送られる。 その手紙は3歳上のアンネの姉、マルゴーの強制労働収容所への要請の通知であった。

 多くのユダヤ人の間で、強制労働キャンプは監獄以下の場所だと認識されていて、その通知を受け取った時、フランク家は外界から隠れ、潜行することを決断する。 そして、通知を受け取った翌日、スイスへ逃亡すると偽り、アムステルダムにあるオットーの会社の裏に設けた隠れ家で、フランク家は周りの世界から閉ざされた生活をおくり始める。 その後、オットーの友人家族、知人の歯医者も加わり、合計8人がわずか3部屋の狭い空間で潜行生活を過ごすことになる。 アンネはこの場所を「秘密の別館」(Secret Annex)と名づける。

 アンネが日記をつけ始めたのはフランク家が潜行生活を決行する数週間前からのことで、移動や潜行生活の事が細かく綴られている。自由なスピリットを持つアンネにとって日記は自分の世界を露にできる憩いの場となり、思春期の悩み、自由への願望、戦争への強い批判を書き表すことになる。

 しかし、アンネの日記は突然の終わってしまう。 

 1944年8月4日、2年ほど続いた潜行生活は戦争が終わるまでには至らず、密告によりフランク家を含む8人はドイツの秘密警察、ゲシュタポの手に捕まってしまう。 彼等は囚人として扱われ、ウエスターボークWesterborkという10万人のユダヤ人が収容された拘留所に送られ、労働作業を強制されられる。

 この後、フランク家が遭遇する悲劇は拍車をさらにかけることになる。 拘引された1ヶ月後の9月2日、潜行した8人は最も悲惨なアウシュヴィッツ強制収容所(Auschwitz concentration camp)に送られる。 窓が閉ざされた貨物に囚人は詰め込まれ、ウエスターボークから3日間に及ぶ過酷な移動を強制させられる。 そして、アウシュヴィッツ強制収容所につくなり、囚人は性別により別離させられてしまう。 妻、エディスと娘達には、この闇に包まれたプラットホームが父親と言葉を交わす最後の場所になってしまう。 

 1019人の乗客のうち、老人と子供を含めた549人がその夜にガス殺害される。 この時、アンネはなんとか大人とみられて命は助かるが、55歳である父は殺害されたものだと彼女は信じ込んでしまう。

 アウシュヴィッツ強制収容所で、アンネをはじめ全ての収容人は全裸にされ、頭の毛を剃られ、腕に番号の刺青をされる。 昼には過酷な労働を強制され、夜には暖房が一切ない小屋で過ごすことになる。 病気は頻繁に起こり、死者は続出する中、アンネは疥癬に酷く悩ませられる。 フランク家の知人によると、強制収容所ではこの母と姉妹は寄り添うように絶えず一緒に過ごしていたと言っている。

 その年の10月に8000人に及ぶ女囚人はベルゲンベンゼン強制収容所(Bergen-Belsen)に移動させられる。 アンネとマルゴーはこの移動に選択され、この折に姉妹は母と引き裂かれてしまう。 娘達と別離した後、母、エディスはアウシュヴィッツで去ってしまった姉妹が帰ってくるのを待ち、自分に与えられた食事を拒否し娘達の為に蓄えはじめる。 しかし、他の囚人に蓄えた食料を盗まれた時に姉妹の母は生きる気力を失い1945年1月6日に餓死してしまう。

 その数週間後の1月27日、アウシュヴィッツ強制収容所はロシア軍により解放される。 この時、男子収容所でなんとか生き延びた父は無事に救出されることになる。 この時、オットーは自分の妻と子供の行方は知るよしもない。

 一方、アウシュヴィッツの解放にも係わらず、ベルゲンベンゼン強制収容所は内地にあった為、連合軍の進出は遅れ、フランク姉妹の過酷な生活はさらに続く。 ドイツ軍の勢力は衰え、囚人には殆ど食事は与えられず、伝染病が続発して死者は路上で置き去りにされてしまう状態になる。 

 収容所ではチフスが広まり、17000に及ぶ囚人が死亡する。 この時、アンネを目撃した人々によると、彼女は丸坊主ですっかり痩せ細ってしまっていて、蛆虫に汚染された服を脱ぎ捨て、ブランケット一枚で生活し、過酷に追われても、アンネはかろうじて笑みをこぼしていたという。

 しかし、その後、姉のマルゴーはチフスに罹ってしまう。 アンネの必死の看病にも係わらず、病状は悪化し、1945年3月にマルゴーは死亡してしまう。

 両親と引き裂かれ、最愛の姉にも逝かれてしまったアンネはこの時点で精気を失い、マルゴーの死の僅か3日後に他界したという。 アンネは僅か15歳と9ヶ月であった。

 アンネが死亡した1ヶ月後に、ベルゲンベンゼン強制収容所は連合軍により解放され、虐待を受けた囚人にようやく援助の手が届いたという。

 秘密の別館で潜行生活をおくった8人のうち、7人が死亡、生き残ったのは皮肉にもアンネが最初に殺害されたと思った父のオットーだけとなる。 そして、この父親は戦争後にアムステルダム帰国し、末娘が書き綴っていた日記を潜行時に助けてもらった親友から受け取る。 フランク家の所有物はナチスによりすべて没収され、この日記だけがゴミ箱に捨て忘れられたのだという。 そして、オットーはノートに綴られた娘の願望通り、彼女の日記を1947年に発行することになる。

 オランダから強制収容所へ移動された11万人のユダヤ人のうち、僅か5千人しか生き残れなかったという。 そして、Holocaust というナチスによるユダヤ人と多くの異国人種への虐殺の数は1000万人を超えるといわれている。


「アンネ・フランク:今日への歴史」展示会

 「アンネ・フランク:今日への歴史」展示会を振り返り、おそらく一番印象に残るのは、アンネの画像ではないであろうか。 

 これは展示会を簡略に説明する最初のビデオの一部で、この画像はアンネの為に写されたものではなく、隣人のカップルが結婚する折に撮られたもので、偶然にアンネが其処に出くわしたことになる。

 カメラは正装した新郎新婦がアパートから出てくるのを撮り、新婚の二人が通り過ぎると、カメラの角度は少し上向きになりアパートの上部を写し出す。 そして、其処に見えるのは2階のバルコニーから身を乗り出してカップルを見守っていた笑顔万遍の少女。 この時、アンネは12才。 たった2秒にしか至らないアンネの画像だが彼女の無邪気な仕草は愛しく、そして、悲しい。 


 「アメリカの53パーセントの生徒は、この歴史的な悲劇を知らないし、関心がないですよ。」と、スパータス博物館の教育者、アマンダ、フリィデェマンさん(Amanda Friedeman)は下唇を噛む。

 「ですから、私達はより多くの生徒達に、この展示会を経験して欲しい。 この展示会を経験させたい。 多くの生徒はこの展示会を見た後に、人生観が変わりますから。」 

 さらに、彼女はこう語る。 「アンネの日記が迫害の残虐さと自由の尊さを教える道具ならば、この展示会は人々に現在存在する偏見や差別による虐殺を認識させ、それを阻止する気持を育ませる拍車です。」 と、アマンダさん、展示会を説明した後に目を輝かせていた。

 取材を終えた折に、たった今展示会を見終わった生徒達の会話を小耳に挟む。 6人ぐらいの少さなスクール・グループで、生徒の歳は12、13というところであろうか。 子供達は駆け足で先に歩く先生にまとわりつき、不安そうに尋ねる。
「アンネは本当に死んじゃったの?」

「そうよ」寂しい笑顔の先生。

下を向く生徒。

「皆でより良い世界にしましょうね。」

 その生徒の肩を寄せ、張りのある声で元気づける先生。 「より良い世界」(A Better World)という小学校の先生の言葉とアマンダさんのメッセージが重なり、アンネの展示会に響くようであった。


                                 文責:佐藤 昌克 / 写真:藤河 信喜


Anne Frank: A History for Today
Spertus Institute
618 S. Michigan Ave.
Chicago, IL 60605
312-322-1724

References
Spertus Museum
Exhibit
Anne Frank: A History for Today

Anne Frank: The Diary of a Young Girl
Translated by B.M. Mooyaart




ホーム | 初めての方へ | お問い合わせ | 投稿者&ライター募集中! | 規約と免責事項 | 会社概要

Copyright (c) 2005 US Shimbun Corporation. All Rights Reserved.