野毛洋子氏(ジャズ・ブルースピアニスト&シンガー)インタビュー記事




(c) Tomoko Sawairi Nagle

シカゴで最も活躍する日本人のひとり、ジャズ・ブルースシンガー&ピアニストの野毛洋子さん。昼間は日経新聞シカゴ支局記者、夜はミュージシャンというダブルヘッダーを30年近くこなし続け、日米の文化交流を担ってこられたスーパーウーマン。1999年の「シカゴ・ブルース・フェスティバル」に日本人女性初のバンドリーダーとして出演、2009年にはニューズウィーク日本版の「世界が尊敬する日本人100人」に選ばれるなど、今やアメリカ社会にも大きな影響力を持つ野毛さんの、魅力の源に迫りました。


第1章 「なにわの女」 
     〜生まれも育ちも大阪・下町。歌謡曲好きの“じゃりン子” 

 生まれは大阪の住吉。セメント会社勤務の父と、母、妹の4人家族、コテコテのブルーカラーの家族やった。長屋生活で家にはお風呂もなかったから、毎晩銭湯に行ってね。
 父親は歌謡曲が好きで、カラオケ上手やったね。その影響もあって私も大の歌謡曲好き。近所のガキども集めて「歌謡なんとかショー」とかようやってた。衝撃を受けた歌手は、藤圭子。まだ小学生の頃やったけど、彼女を最初に見たときはもうすっごい衝撃やったなぁ。テレビからはみ出るー、みたいなオーラがびゅー出てたでしょ。演歌のもとは民謡で、民謡は“ピープルズ・ルートソング(People’s Root Song)”やから、演歌はまさに日本のブルースやと思う。一方、母はクラシックが好きで、私にピアノ習わせようとしたけど私が泣いて拒否(笑)。


第2章 「女のブルース」
     〜 ブルースにホレた高校時代。

 今宮高校時代にフォーククラブに入ったのが、(音楽人生の)始まりかな。このクラブはやたらとOBの存在が強いクラブで、合宿とかしょっちゅうOBが顔を出してたわけ。ちょうどその頃、同級生からレコードを借りて聞いたエルモア・ジェイムズにぶっ飛んで、「これや〜!」ってブルースにはまった。ひと回りくらい上のブルース好きのOBに「こいつおもろいな」って気に入られて、ブルースの教育を一からびっしり受けたの。レコード片っ端から聞いてね。そのOBが「バンド作るから歌え」いうて、二人でギターとヴォーカルでバンド始めたの。大学に入ってからも大学のクラブじゃなくてそのときのバンドで歌ってた。メンバーの入れ替わりはいろいろあったけどね。

--- 大学在学中にヤマハ・ポプコンで入賞し、1978年に痴漢撃退を歌った「おっさん何するんや」でプロデビュー。
 大学?時間稼ぎやね。高校出たときにまだ何したいのかわからんからとりあえず大学行くと決めて、「私、出てくから」ってさっさと家を出た。すごい親不孝やったなぁ。
 デビューしたんは、まだ大学在学中。当時大阪では上田正樹や憂歌団なんかが活躍してて、ブルースブーム真っ盛りからそろそろ廃れはじめっていう頃。大学を卒業してからは、(プロとして)いろいろツアーの仕事もやった。安い給料でね。レコード会社を回ったりもした。デビューしたてのサザン・オールスターズともレコード会社で会ったのもこの頃やね。

「おっさん何するんや」でプロ・デビューした頃。大阪のライブハウスで。

  
「ヨーコぶるーすばんど」のデビュー盤にして最後のアルバム(78年録音:復刻版)
 当時私らのホームグラウンドは「赤とんぼ」っていう変な大阪のブルースクラブ。夜、下駄ばきで店に行って、そのまま梅田の「ヴィックスバーグ」ってクラブに流れるパターン。憂歌団も来てたね。当時はブルースのレコードなんてそう簡単に手に入らんかったから、みんなでブルースのレコード聴かせてもらってたの。アングラなイメージ?そうやね。ブルースってどっかでAnti-authority(エンタイ・オーソリティー反権威主義)みたいなものとくっついたから、アングラ芝居の人たちとかとつながってたね。


第3章 「大阪からシカゴまで 」
     〜1984年、26歳。本場のブルースを見たい、聴きたい一心でアメリカへ。

 ずっとシカゴへは行きたかったし本場のブルースを聴きたかった。ふんぎりがついたのは26歳、母親が亡くなったとき。バンドメンバー3人とネージャーと4人で旅に出た。当時はシカゴまでの直行便なんてないから、まずロスに入って中古車買って、ルート66でシカゴまで15日かけてドライブ。途中、知り合いの家で住み込みのバイトしたりしながらね。旅は楽しかったよ。
 シカゴでは最初は安ホテル、それからラーメン屋なんかでバイトしながらマンスリー・アパートを借りて住んどった。このときは1年くらいで帰るつもりやったけどね。


第4章 「YOKOの夢は夜ひらく」 
     〜ウェストサイド・シカゴ・ブルース

 シカゴに来てから結構すぐ、シカゴ・ウェストサイドのブルースクラブ(“マリーズ・ラウンジ”や“ドミノ・ラウンジ”)で飛び入りで歌うようになった。(バンドメンバーでもあった)当時の旦那がウィリー・ケントのバンドのギタリストに雇われて演奏しとったのもあって、ゲストボーカルで歌わせてもらってた。ほかにもエディー・テイラーとかが出てた。50人くらいお客さん入るともうぎゅうぎゅう詰めになるくらいの小さな店で、ほぼ100%黒人。
 私、ウィリー・ケントのベースが大好きで、彼のベース聞いてたら気持ちようなって出番前に客席で寝てしもて、ステージの上からウィリーに「YOKO、起きろ!」ってよう起こされた。楽しかったなぁ。お店の人もお客さんもほんまに皆すっごいやさしかった。でも付近の治安は悪かった。ドミノ・ラウンジのオーナーなんか、目の前で撃たれたもん。

80年代、シカゴ・ウェストサイドの“Mary’s Lounge”で。
(c) Kenjiro Hayashi

 1年くらいのはずが、帰りたないって思ってずるずるそのまんま。帰ろうと思ったことは一度もなかったし。そのうち旦那がアメリカに疲れて離脱して別れた。結局、私が次に日本に帰ったのはシカゴに来て3年経ってから。その間、連絡らしい連絡もせずでほんまに親不孝やったと思う。でも、言い出したら聞けへん子やっていうのは親が一番よう知っとったからね。


第5章 「命預けます」 
     〜クラーク・ディーンとの運命の出会い。30歳の年の差婚

 自分のバンドなんて、当時は考えられへんかった。ビリー・ブランチに「お前、自分のバンド持ったらええねん」て言われたけどそのときは「そんな恐れ多い。でけへん!」言うたの覚えてる。でもそのうち、自分でメンバーを集めてクラブで歌うようになって。あるときピアニストに仕事すっぽかされて、もう人には頼れへん、これからは自分でピアノを弾こう、と思ってブギウギピアノの第一人者であるアーウィン・ヘルファーにブルースピアノを習い始めたわけ。

--アーウィン氏のバンドメンバーでもあったソプラノサックス奏者のクラーク・ディーンに惚れる。
 彼の音を聞いたとたんに「うわぁ〜」と思たの。「こんなにあったかくてやさしい、きれいな音色を出す人がおるんや!」って、音に“一目ぼれ”。それからすぐ、鍋釜持たずに彼の家に転がりこんだ。後先考えへんから(笑)。それに私、男には自分からいかないややねん。愛の告白?別に何もないよ。ひざ触っただけ。それで6か月後に結婚したの。


夫のクラーク・ディーンと  Photo by Harry Saito

 当時は自分でメンバーを集めてピアニストを雇ってブルースを歌っていて、同時にクラークからJazzもぼちぼち仕込まれ始めていた。彼のおかげで世界が広がってめちゃめちゃ感謝してる。クラークも「You are the best thing happened in my life. (君に会えたことが僕の人生で最高の出来事だ。)」って言うてた。「僕の人生、ベストタイミングでベストな人に出会った」って。私もそう。この人に出会わなければ今の自分はない、くらいに影響を与えてくれた人やね。

--昼間は記者としてのフルタイム、夜はミュージシャンの“二足のわらじ”生活。
 師匠のアーウィンにピアノを習い始めたとき、「YOKOはブルースで何がしたいのか?」って聞かれた。「これでお金を稼ぎたいというのは間違いだと思う。お金のためなら辞めとき」って言われたの。私も日本を出るときから「お金を儲けるために音楽をやるんではない」って思ってたし。それは日本でプロ生活を経験して実感したことでね。レコード作って、あいさつ回りして、売って、ツアーしてって、こんな生活は私にはでけへんしやりたくもない。売れる売れへんの世界のなかでは、私は生きていきたぁない、て。だから、きちんとお金を稼ぐためにも何でもいいから昼間の仕事がしたかった。そんなときに友達から今の職場(日経新聞社)を紹介されて、はじめは電話番&編集アシスタント&秘書として働き始めたの。結婚した年の1月1日付入社。当時事務所は3人。記者になったのは2000年頃。昔のことよう覚えてない(笑)

 Courtesy of the Chicago Shimpo

--その後の活躍は、言わずもがな。市内のJazzクラブ「HOT HOUSE」や「Andy’s Jazz Club」などを中心に自身のバンドで常連出演を続け、シカゴJazzシーンの重要人物となっていく。









1996年に始まった「シカゴ・アジアンアメリカン・ジャズ・フェスティバル」の中心スタッフとなり、自らのバンドでも出演。
Courtesy of the Chicago Shimpo
 





2011年4月1日 シカゴ国際姉妹都市(Chicago Sister Cities International」主催による東日本大震災救済チャリティーイベント。このイベントでは、シカゴのジャズ、ブルースの大御所たちと結成した“Yoko Noge's Japanesque”で出演。
(c) Tomoko Sawairi Nagle



--2012年、突然思いもかけない出来事に見舞われる・・・。

 私が出張で2〜3日留守にしているときに、クラークが軽い発作から視力を失ってしもうたの。もともと体も弱ってきてたし、ギグに一緒に出る機会も減ってきてたころやった。大変やったよ。それからはアルツハイマーの症状も進んで、今では介護の人がつきっきりできてくれている状態。私子供を産んだことも育てたこともないけど、“赤ちゃんを育てる”ってこういうことなんかとつくづく思た。24時間目が離せないでしょ?常に神経を研ぎすませておかんと何が起こるかわからんし。自由でないことが大嫌いだった自分からは考えられへんほど、今は自由のない生活よ。え?やればできるって?やらなしゃぁないやん。でもやれてる私ってすごいわぁ(笑)。 


        2012年 シカゴ市内で行われた東日本大震災写真展「絆」をとりまとめた。
         震災の記憶を失わないようにと、この写真展は毎年行われている。










2012年シカゴ・ジャズフェスティバルにて。
ヴォーカリストのディ−・アレキサンダーと。
(c) Lauren Deutsch


第6章 「聞いてください私の人生
     〜私にとって歌うこととは?そして、これから


--アメリカでネイティブの聴衆の前で英語で歌うことのひるんだり気おくれしたりしたことは?
 (言語としての)言葉の完璧さなんて気にしとったら、いつまでたっても歌われへん。言葉は大事なものであるけれども、わかりやすく万人に伝わるものである必要もない。たとえばサニーランド・スリムのズーズーなまりなんか、同じアメリカ人でも何言うとるかさっぱりわからんて言うもん。要するに、(伝わるかどうかは)言葉やねんけど言葉ではない。それが“歌の持つ力”やね。
 私が最初にブルースを聴いてあの魂の震えみたいなものがゾクゾクっと背中に来てしまったとき、私はその言葉を理解していたかと言うとしていない。じゃあその感動はどこから来たのか?それは、言葉に乗せられた「言霊」、あるいは「言葉を包む音」が何かを運んできたわけでしょ?受け手が受け取るのは言霊の発するエネルギーであり音の発するエネルギー。だからといって逆に、言葉をちゃんと理解していない人には、「言霊」は載せられない。そやから、言葉の理解は、発信する側の問題としてものすごく大事やと思う。






2011年から毎年続けている東日本大震災の写真展“絆〜KIZUNA”のオーガナイズや、長年にわたる日米国際交流への貢献が認められて、2014年12月に外務大臣表彰を受賞。左は吉田雅治・在シカゴ日本国総領事
(C) Tomoko Sawairi Nagle







2014年、「シカゴ国際姉妹都市委員会」の2014年度ボランティア・オブ・ザ・イヤーを受賞。ビジネスや文化などあらゆる面でシカゴを国際的にプロモートしていくにあたって、彼女の優れたリーダーシップ、熱意、才能が高く評価されての受賞だった。
(C) Tomoko Sawairi Nagle








毎週金曜日に出演しているシカゴ市内のレストラン“Cyrano’s”にて。ヴォーカリストのジョージ・ウェルズさんは、「彼女とは友人を介して知り合って以来ずっと一緒にやらせてもらっているんだ。フェアで本当に素晴らしい人間。いつもポジティブで一緒にいて心地がいいよ」と語ってくれた。


--これからどこに向かっていくのか。
 これからも歌いたい歌を探して歌っていく、やろね。やりたい歌はたくさんあって、たとえば古いJazz。もっとビリー・ホリディの歌や、今までやりたいなと思いながら一度もやってないナンバーとかをやってみたい。ニーナ・シモンの古い歌とかもね。
 日本の演歌もまた歌ってみたいな。青江美奈の“伊勢佐木町ブルース”なんかも昔バンドやってウケたんよ。最初の「アハ〜ン」は入れんかったけどね。(笑)


    2014年の日本ツアーにて (C) 山田浩之 (Tokyo Swing Dance Society)



■「言い出したら聞かん子」がそのまま大きくなったような人。自分の気持ちをごまかしたり、周りに妥協したりしない潔い生き様が、「言霊」、「音霊」となって、聞く人の心にまっすぐに届く。それが野毛さんの「歌の力」だということを実感。大変な苦労もありながらそれをおくびにも出さず、明るくユーモアにあふれた彼女の周りには、彼女を慕う人たちが集まってくる。私もその魔力にやられ、時間を忘れて話し込んでしまいました。
※各章のタイトルは、野毛さんが子供ごころに衝撃を受けたという歌手・藤圭子の往年のヒット曲をアレンジ。




2015年2月18日@日経新聞シカゴ支局オフィス

                        文責/ 撮影(署名以外):長野尚子





■野毛洋子 (のげ ようこ)氏 略歴

1957年 大阪出身
1977年 追手門学院大学(社会学専攻)在学中にヤマハ・ポプコン 関西地区特別賞受賞。その後「ヨーコ・ぶるーすばんど」を結成。バンドコンテスト番組「ハローヤング」にてグランプリ受賞
1978年 ビクターからデビュー。デビュー曲、痴漢撃退を歌った"おっさん何するんや"が20万枚のヒットを記録
1984年 本場のブルースを体験する為、渡米。市内のブルースクラブでゲストシンガーとして歌い始める。
1987年 ソプラノサックス演奏者クラーク・ディーン氏との結婚を機にYOKO NOGE &THE JAZZ ME BLUESを結成。
1999年 日本女性で初めて、「シカゴ・ブルース・フェスティバル」にてバンドリーダーとして出演。
2005年 コロンビア・カレッジ・シカゴから、活躍するアジア人女性を対象にした女性戦士賞を受賞。2006年 シカゴ・トリビューン紙がその年の最も活躍したアーティストに贈る“シカゴアン・オブ・ザ・イヤー”を受賞
2009年 「ニューズウィーク日本版」の“世界が尊敬する日本人100人”に選ばれる。
2011年 東日本大震災後、被災者の復興やシカゴの人々との関わりを表す写真展「絆:The Bonds of Emotion」を主催。この写真展は以後、毎年続けられている。
2014年 音楽や姉妹都市交流活動が評価され、日本政府より外務大臣表彰(世界の個人、団体から日米交流への貢献度の高さで選ばれる)を受賞。
また、「シカゴ国際姉妹都市委員会」の2014年度ボランティア・オブ・ザ・イヤーを受賞。
日経新聞社のシカゴ支局記者。シカゴ国際姉妹都市大阪委員会・共同委員長
現在は、シカゴを中心に日本ツアーなども行う。毎週金曜日はシカゴ市内のフレンチレストラン「Cyrano’s」で演奏中。



● 東日本大震災 復興写真展”絆(Kizuna 4)”ご案内
日米の写真家による、被災地復興の様子を綴った写真展。
・日程・場所
3月9日〜13日 デイリーセンター・ロビー(50 W.Washington St.)
3月16日〜20日 トンプソン・センター(100 W. Randolph St.)。無料
・オープニングセレモニー
3月11日の正午から1時まで。リチャード・デイリーセンター、ロビーにて
詳しくは : http://chicagosistercities.com/kizuna4/
 

● 関連記事
東日本大震災写真展「絆」“あの日を忘れない。〜大震災1周年メモリアル写真展” (2012年3月11日)
http://www.usshimbun.com/interview/interview-3.11.htm

シカゴのナイトライフを彩る人気のジャズスポット大紹介!(2009年5月)
http://usshimbun.com/corporate/jangle6.html

● レストラン「Cyrano’s」
オーガニックの食材を使ったメニューが人気のカジュアルフレンチレストラン。ワインも豊富。野毛さんのバンドの演奏は毎週金曜日午後6時半〜10時まで。
住所:546 N. Wells, Chicago
電話:(312) 467-0546
http://www.cyranosfarmkitchen.com/



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