札谷新吾氏(カレッジ・オブ・デュページ人文学部教授)インタビュー記事

イリノイで「日本語教育に関することを聞くならまずこの人に聞け」と一番に名前があがる人物と言えば、COD(College Of DuPage)人文学部教授の札谷新吾氏。2008年に全米最優秀日本語教師賞(大学の部)を受賞し、学生に絶大な人気を誇る“GTS(グレイト・ティーチャー・サツタニ)”は、バイリンガル教育の第一人者としてもアメリカで子育て中の日本人の親たちを対象に継承日本語教育の講演などに駆け回る、今最も脂の乗った人物だ。


― 出身は意外にも理系、土木工学科ですね。

 高校時代、とにかく英語が苦手だったというだけの理由で理系に進みました。それに当時は大学で文系に行こうとは思ってなかったですから。受験校だったので理系は「医学部」を目指すわけですが、僕は血が苦手で絶対に医者にはなれない。それで親父が建築会社を経営していたこともあって土木を選択しました。
 15歳(中学3年)とのきに親父の会社が倒産し「大学は私立には行くな」と言われていました。ところが、京大受験に失敗して「大切な18歳の1年間を浪人生活で費やすか先に大学に行って違うことを始めるか」という価値を天秤にかけた結果、立命館大学の土木工学科に行く方を選びました。高校の先生が、僕のために日本育英会へ奨学金取得の推薦状を書いてくれたおかげです。

― どんな大学時代だったのですか?

 大学時代は、塾での生徒指導や家庭教師のアルバイトに明け暮れていましたね。また、もともと抑圧的な力に対する反抗心が強かったこともあって、いろいろな社会運動や学生運動にも参加していました。在日コリアンの人権運動もそのひとつでした。高校時代の(在日韓国人の)同級生が大学で急に本名登録をさせられたり、指紋押捺を強制されたりすることに対して、どうしても納得できなかった。また、教育を政治的な圧力から守ろうという反日共運動などにも参加していました。おかげで、この時代はあまり勉強した記憶がない(笑)。取るべき単位数が足りなくて、一時は「奨学金を止めるぞ」と通告されて焦ったこともありました。
 
― その後文学部へ編入された理由は?

 卒業後の進路を考え始めた時、自分は会社に就職しようという気がまったくなかったんですよ。塾のアルバイトなどで月に20〜30万円は稼いでいましたから、いまさら企業に入ってあくせく働いて拘束されるのがいやだったし。同期たちの進路は主に公務員かゼネコンでしたが、「利益主義に走る企業の片棒をかついて搾取側にまわる」というのが、当時は許せなかったんですよ。また、医学部に行った高校時代の理系の同級生たちはたいがい1浪、1留するので、彼らと並ぶには自分にはまだあと2年あるぞ、と思っていましたしね(笑)。
 そこで、土木工学科を卒業してすぐ、文学部西洋哲学科に学士編入しました。もともと学生運動などの影響もあって、西洋の社会思想に興味があったからです。文学部では理系のときとはちがうインテレクチュアルな刺激を受け、日頃考えていなかったことをさまざまな議論によって考えさせられ面白かったですね。一方で、文系で生き方が狭まった分、卒業後のことやこの2年間をどう過ごそうかということを常に考えていました。

 ちょうどその頃、「日本反アパルトヘイト(南アフリカの黒人差別)委員会」のミッションで、南アフリカのタンザニアの亡命キャンプでボランティアをしました。主には教育キャンプに日本からドネーショングッズを運んだりする活動を1か月間やりました。

 
(左)ダルエスサラームのキャンプにて
(右)自由の戦士(フリーダムファイター)女性の通訳として日本の女性のリーダー土井たか子に面会

 
― タンザニアでの経験はその後にどう影響しましたか?

 アフリカから帰ってまず思ったのは、「英語をしゃべれないとまずい」ということ。昔から英語が苦手だったので、あいさつ程度しかしゃべれない。しゃべりたいけど自分がいいかげんな英語をしゃべって組織に迷惑をかけてはいけないという葛藤がありました。英語が話せたらどんなに楽しいだろう、そう強く感じましたね。
 そこで帰国後、近所の教会でやっていた朝7時から1時間の英会話クラスに通い始めました。日中は授業やアルバイトで忙しかったので、早朝しか時間がなかったんです。このクラスには大学教授や近所の散髪屋さんなどいろいろな“必要に駆られた人たち”が通っていて、彼らといろいろな議論をしながら随分鍛えられました。結局ここには2年間通いました。

― 日本を出ようと決意されたのは?

 文学部を終えた後のことを考え始めたとき、このまま日本にいてもレールが見えているなと閉塞感を感じていました。それで、外国に出よう、と決めました。じゃあ、外国で自分にできることは何かと考え、昔から教師に興味があったので「日本語を教える」道もいいんじゃないかと。
 しかしちょうどその頃、当時の文部省から「日本語教育能力検定試験」を国家試験として正式に設けて実施する計画が発表されたんです。これには正直焦りました。これが正式に始まってしまうと、関西アクセントのある自分には非常に不利になるんじゃないか、それにこの試験をパスした者のみが海外での日本語教師として“ふるい”にかけられてしまうんじゃないかと。そうなる前に日本を出なければ、と思ったわけです。
  そこでさっそく、大阪のとある外国人向けの日本語学校の中に併設されていた「日本語教師養成講座」に通い始めたんです。生徒の多くは、いわゆる東南アジア系の水商売の女性たちで、僕は“教育実習生”という形で彼女らに日本語を教えました。
教科書通りの日本語じゃ面白くないので、「水割りにする?」とか接客に役立つ日本語を自分で勝手に考えて教えたりして。おかげで僕のクラスは生徒たちに大人気でしたね。その講座を3か月続け、「日本語教師の認定書」をもらいました。とはいっても、当時は各学校が勝手に認定書を作っていたんですが (笑)

― そしていよいよアメリカでの生活が始まるわけですね。

 「アメリカ生活を楽しみながらクラスを教えてみませんか」というような謳い文句だったと思います。斡旋会社の紹介で、1988年8月からオハイオ州のシンシナティにあるマイアミ大学で、研修生兼teaching assistantとして働き始めました。25歳のときでした。 

 当時の英語は本当にひどいもんでした。いくら英会話教室に通っていたからとは言っても、実際にアメリカ人のしゃべる英語はわからなくて、クラスに僕の英語の「通訳」をしてくれる学生がいたくらいです(笑) 当時の学生たちは、「エキゾチックJapan」に惹かれて日本や日本語に興味を持った子たちが多く、そのほかには武道系、ビジネス系、ポップカルチャー系という感じでした。今のように「漫画・ゲーム系」というのはごくわずかでしたね。
 
(左)地元の中学校で日本文化を紹介 (右)「なりますvs.します」の講義中

― この頃からアメリカで日本語教師になる道を?

 この頃はまだ、大学の教師になろうとは思わなかったですね。その前に、「この国で生きていけるかどうか見ないかん」という気持ちでした。この年齢ならまだ引き返せる、日本に帰ってもレールに乗ることができると思っていましたから。それに、当時の僕の思想からすればアメリカは“搾取と帝国主義の尖兵”であって、日本はアメリカの“金魚のフン”だった。いわば、アメリカは「好きになるはずのない国」だったわけです。しかし、同時に可能性を秘めている国であり、能力のある人にはそれなりにチャンスが与えられる、パイオニア精神の根付いた国であることもまた確かです。だからそこで自分が生きていけるかどうか見極める必要があった。でも、比較的すぐに「やりたいことはやっていけるんちゃうか」という手ごたえを感じました。
 

日本語教師としてアメリカで生きていく手ごたえをつかんだ札谷氏は、89年からニュージャージー州のシートン・ホール大学大学院へ進み、東洋学研究科を専攻する。

 希望していた教師助手(インターンシップ)のポストにたまたま空きが出たんです。お蔭で授業料が免除になり、月400ドルの奨学金もでた。ラッキーでしたね。そこで2年間、クラスを教えながら学びました。今もそうですが、男性の日本語教師は珍しくて重宝がられましたし期待も大きかった。
 91年にシートン・ホール大学を卒業したあとは、バイリンガル・エデュケーションに1年間籍を移し、近辺の大学で教えていました。そして翌92年から、同じカトリック系の大学であるニューヨークのフォーダム大学の博士課程に進みましたが、1年ほどたったある日、古巣のマイアミ大学の恩師から臨時教師をしてほしいと連絡があり、またオハイオに戻って臨時教師をすることになったんです。
 
― イリノイへ来られたきっかけ、Collge of DuPage (デュペイジ大学) との出会いは?

 94年3月に出席したボストンでの学会で、たまたまCOD(College Of DuPage)の日本語教師募集を見て、すぐに電話をしました。かなりの応募者があったと聞きますが、幸いにも審査で最終選考に残り、最後のteachingデモンストレーションでは「今晩飲みましょう」という表現を教えたのを覚えています(笑) そして翌日の面接を経て採用が決まりました。フォーダム大学での博士課程は長期休学して、その年5月からイリノイに来て今に至ります。
 現在は、CODのクラスのほかオーロラ市のワーバンジー・コミュニティ・カレッジでも教えていますし、(シャンバーグ市)ドゥーリー小学校の2か国語プログラムで、英語スピーカーの親を対象にした日本語クラスも教えています。

― 最近の、日本語教育に関するいろいろな活動について教えてください。

 ほぼ毎年、6月から7月にかけて「ホームステイしながら日本語を学ぶ」という夏季留学に、アメリカから京都に学生を連れて行っています。午前中は語学授業、午後は神社仏閣などの文化施設を訪問する、5週間のプログラムです。今年も18名の学生を引率してきたところです。
 また、最近は日本人子弟の継承日本語教育やバイリンガル教育に関するシンポジウムやなどでも積極的に講演をしています。6月に行われた「バイリンガルの子供の教育、進学、就職を考えるシンポジウム」でもパネラーをしましたが、その際参加された保護者の方々に呼びかけて、バイリンガル教育や子育てのコミュニケーショングループ「シカゴバイリンガル教育」を立ち上げました。(※)7月には、ユタ州ソルトレイクシティーで「全米日本語大学レベル試験(AP JAPANESE TEST)」の採点作業をしてきました。

CODの学生募集ポスターにも登場

 さらにこれは付け足しですけど、時々「声優」もやっています。ミルウォーキーの「ハーレー・ミュージアム」の日本語案内や、タイガーウッズの元コーチが作っているゴルフのDVDの吹き替えなんかも僕の声なんですよ。

― 「好きになるはずのない国」で早や25年ですね。

 アメリカは嫌いな国でしたけど、これからもしばらくいるでしょうね。日本へも頻繁に行きますが、今のところ日本にもアメリカにもどっちも「帰る」という感覚。どちらかというと、アメリカに帰ってきた方が楽。社会的な雑用がなくなるからでしょうか。今はアメリカが好きですよ。やればやっただけのことはある、という意味では僕を裏切ってないですから。ただはっきりわかったのは病気になったら終わり、ということですね。アメリカは健康な人間にはベスト、病気になったらゴミ。なので、そのときは日本に帰ります(笑)



■学生に交じっていても何ら違和感を感じないその風貌からは、想像できないくらい強く硬い信念をもって己が人生を生きている人。自分の目の前ある運命に迷うことなく乗っかることができる「抜け目のなさ」が、柳のようなしなやかな強さに直結しているように感じた。


2012年 @CODオフィス

                        文責・写真(ポートレイト):長野尚子


■札谷新吾(Shingo Satsutani)氏 略歴
1963年 京都市生まれ
1981年 大阪高槻高校から立命館大学理工学部土木工学科へ。
1985年 同学科卒業後、同大学文学部西洋哲学科に編入。
1987年同学科修了後、88年8月 日本語教師として渡米。オハイオ州マイアミ大学にてTeaching Assistantを務め、89年より、ニュージャージー州シートン大学でAsian Studiesの修士を取得。 
1994年9月 イリノイ州カレッジ・オブ・デュペイジ人文学部教授。
妻、長女(6歳)、次女(3歳)とシャンバーグ市在住。愛称、さっちゃん。

イリノイ州日本語教師会 会長、全米日本語教育学会 理事、全米日本語優等生協会 世話役


(※)「シカゴバイリンガル教育」グループ
2012年6月2日にシカゴ日米協会が主催して実施された「バイリンガルの子供の教育、進学、就職を考えるシンポジウム」で参加者に呼びかけを行なった結果、結成されたコミュニケーションングループです。シカゴ地域のバイリンガル教育・子育てに興味のある方なら誰でも参加できます。ただし、メッセージの閲覧や投稿をするには招待を受ける必要があります。
連絡先は札谷新吾先生まで→メール宛先 satsutan@cod.edu



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