加藤登紀子さん スペシャルインタビュー

1月17日に行われた「シカゴ日本商工会議所新年会」のスペシャルゲストとして、芸能生活50周年イヤー最初のコンサートを開かれた歌手の加藤登紀子さんに、公演終了後お話を伺いました。今までの歌手人生を振り返り、出逢いや別れ、人生で大切になさっていることなどをたっぷりとお話しいただきました。



たくさんの人と“全身で出逢ってきた”50年間。
 出逢うこと自体、すごく劇的で運命みたい。夫(69年に学生運動のリーダー、藤本敏夫氏と獄中結婚。藤本氏は2002年に他界)との出会いもそう。出逢った人のほうが私の人生を作ることをすでにわかっていて出逢っているみたいな、不思議な気がします。私も、川の水が岩にぶつかるように全身で人に出逢ってきたし、出逢うという事をとても大事にしています。
 コンサートも、一期一会。そこに来ていただいている人たちとの二度とない大きな出逢いだと思っているんですね。最初の頃は、客席にいる人がどんな人なのか全然分からなくて、ステージは孤独なものだと思っていました。でもだんだんと「一緒に生きてきたわね」と大きな共感とともに、来てくれた人たちの人生そのものが目の前にあるんだと感じながら歌えるようになった気がします。今日は、小さなお子さんを連れて海外でがんばっていらっしゃる、私の娘世代の方たちも多かったので熱い気持ちになりました。


50周年のテーマは、『終わりなき歌』
 私のコンサートに来てくださる方は、私より年齢の上の方も結構いらっしゃって、中には伴侶を失くされたりご自身が病院から抜け出して来た、という方もいらっしゃるんです。病院でのコンサートや、もうあと少ししか生きられないという方々の前で歌ったこともありました。私の歌って「生き延びましょう」って言う歌が多いんですね。どの歌もすごく強いの。だから、どんな瞬間にも生きるということの素晴らしさを感じて届けるようにしています。
 50年は通過点ではあるけれど、どんな瞬間も消えていないしずっと歌い続けてきた歌も私と一緒に生きてくれている。歌は聞いてくれた人の心の中に生きて住んでいく、私がこの世から消えてもその歌が残っていく、歌というものは終わりのないものだな、というのが、今回の50周年の『終わりなき歌』というテーマに込めた想いです。それを伝えるためにはちゃんと歌える自分を維持していきたいし、歌を裏切らすに届けられる自分であり続けたいと思っています。

 夫の藤本敏夫氏と(1997年)


『百万本のバラ』にこめられた想い
 私はすべての音楽、すべての民族、すべての文化が尊重されるべきだと思っています。その違いが憎しみになり戦争のきっかけになってしまう。20世紀に私たちは歴史にいろんな傷跡を残しました。でも21世紀はそれを乗り越えていく世紀であってほしい。それには歌が大きな役割を果たすのではないかと思うんです。
 『百万本のバラ』という曲は、(ソ連の領地だった)ラトビアで生まれた曲です。ラトビアの独立運動の先頭に立っていた人が作曲し、ロシア人が詞を書き、歌に登場する画家はグルジア人という、たくさんの(民族の)人たちによって作られ、その後それぞれの国が自由になっていった、歴史を運命のようにかかえている歌。ですからこの『百万本のバラ』を50周年のテーマとしてやっていきたいのです。今年は6月にそのラトビアからオーケストラを呼んでコンサートを行う予定です。

人と人は“あなたと私”として出会う
 私は今まで世界いろんな国に行っていろんな文化の違いも見てきましたが、私の生き方の根本にあるのは母からの教えでした。それは「たとえ国同士が戦争関係にあっても、人と人とが出会うことは“あなたと私”という関係であり、どんな瞬間も“あなたと私”として向き合うことが大事だ」ということです。これは終戦後に中国に残っていた母が生きるためにたどりついた方法だったのだと思います。自分の命を守るためにも相手を信じることが大事だ、と。これが私の生き方の鉄則になったと思います。
 昨日は(シカゴ日本語学校)補習校で小さな子供たちに戦争が終わった時の話をしたんですけど、ちゃんと一生懸命聞いてくれました。アメリカで日本の人たちががんばって素晴らしく生きている姿を見た気がしました。それはやはり、親たちがここでちゃんと根を張って生きているという事を伝えていて、子供がそれを受け止めているということ。とっても感動しましたね。






シカゴ双葉会日本語学校補習校を訪れ、子供たちと交流(1月16日)。
「こちらの日本人の方のほうがずっと礼儀正しい(笑)。子供たちの礼儀正しさには本当に驚きましたね」(写真:加藤登紀子さんのブログより)


音楽は人間が決めた国境よりずっと自由
 最初にアメリカで歌ったときは、日本をどうやって伝えたらたらいいのかさんざん悩みました。それで結局は「私を伝えるしかない」と思って、ロシア民謡、シャンソン、韓国や日本の歌もプログラムに入れました。リリー・マルレーンで幕を開けたら、すごく気持ちが伝わった気がして。私、アメリカでとっても開放感を感じたの。日本では「なんで日本人なのにロシア民謡なの?シャンソンなんだ?」といつも言われている気がしていたんですね。だけど「それが私なんだ、いいんだ」と認めてもらった気がした。リリー・マルレーンを聞いたアメリカ人から「ありがとう」と言われたことがありました。戦争時代に聞いた歌だって。「歌が国境を超える」のではなく、国境は誰かが勝手に作ったもので超えるためにある。地球の上には国境はありませんから。音楽は人間が決めた国境よりずっと自由ですよ。
 私はかれこれ65か国くらいに行っていますが、行く先々で現地のミュージシャンとセッションしてきました。音楽家として会うというのは、人と人との出会いで一番いいと思いますね。地域でいろんな人が一緒に音楽活動をすることとか、全世界がみんなで音楽を作る気持ちでいるといいんじゃないかな。そういう意味で、歌う人生を送ってこれたことはうれしいことでした。







エディット・ピアフの墓を訪ねて(1989年)
加藤さんの母と同じ、1915年12月19日にこの世に生まれたピアフ。ピアフが47歳でこの世を去った年に20歳になった加藤さんは、1回目のシャンソンコンクールでピアフを歌い、歌手としての第1章が始まった。


日本を飛び出したとき日本人であることを感じる
 最初に一人で中東〜中南米を旅してまわったとき、“地球は丸い”と思いました。日本を出たらその足はもう日本に向かっている旅なんですね。行く先々で日本を自慢したいし、私は日本人なんだとみんなに伝えたい。日本にいるときはこんなに一生懸命日本人していないですよね。それが「地球が丸い」っていう意味なんだなぁって。日本を飛び出すときは、日本に飽き足りないものを感じてもっと面白いものがあるんじゃないかと出ていくんですけど、飛び出しながらやっぱり私は日本を探しているんだなぁと感じましたね。海外に来た時に、ちゃんと「日本人である」ということ事の見本を見る気がしますね。

どの言語で歌おうと失ってはならない「言霊」、「音霊」
 その国で生まれた歌をその国の言葉で歌うと、歌に込められた気持ちがものすごく強まります。ポーランドに行ったとき、日本語でずっと歌ってきた歌をポーランド語で歌ったんですが、魂の強さが何十倍にも強まったと感じました。ですから(その国で生まれた歌は)その言語の言霊(ことだま)、音霊(おとだま)ができるだけ生きるように日本語を作るようにしています。
  また、ものすごく感情を込めることに向いている言語とそうでない言語がありますね。向いてないのは日本語の標準語。反対に、フランス語やロシア語、韓国語はすごく情が熱い言葉です。『ひとり寝の子守唄』を韓国語で歌ったとき、何か泣き叫ぶような感じがして、言語に込められた歴史性というのをものすごく感じました。ポーランド語や韓国語は、苦しみを超えながら語られてきた言葉で、英語は勝利者の言葉、勝ち誇った人の言語だなぁ、と思いましたね。日本語は感情を音声化しにくい言語だけれど、意味として伝える繊細な力は類まれな言語だと思うので、日本語をどこまで使い切るかというのは歌手としての願いですね。

東日本大震災後に毎年続けている、被災地を訪ねるコンサート
 今日コンサートで、久しぶりに震災の時の映像を流しながら歌っていろいろ思い出してしまって涙があふれてしまいました。最初に行ったのは、三陸の山田町、大槌、陸前高田、その後は南三陸、東松島、名取、福島もまわりました。楽しみに待っていてくださる人がいるのはうれしいですね。ご縁もたくさんできました。また今年も行くことになりそうです。
岩手県山田町にて(2011年)
 
ひとりの女性、人間・加藤登紀子としてのこれから
 女としても人間としても歌手としてもやりたいことは同じ。やはり、歌うことで私にできることをやっていきたいですね。好きなことは、お料理。ささっと作れる家庭料理が得意です。いい素材を集めてみんなにおいしいものを食べてもらうっていうのは音楽と似ているでしょ?いい音楽にたどり着きたいとみんなで向かっていく、アンサンブルっていう関係はまるでお料理みたい。このお正月も、何家族分のお節を作ったんですよ。

 
極寒のシカゴにて(写真:加藤登紀子さんのブログより)


「人と会うときは全身でぶつかるの」という言葉に、加藤さんの今までの出会いは全て彼女の“生きる力”が呼び込んだものだと納得。インタビュー終了後も一緒に廊下を歩きながら、歌の話、言語の話と会話は止まらず、最後のお別れの握手の瞬間まで私にぶつかってくださった加藤さん。2015年の初めに素敵な人に出会った私は、この年を全身で生き切ろうと誓いました。



2015年1月11日 @ルネッサンス・シャンバーグホテルにて

              文責・写真(ポートレイト):長野尚子
Text/Portrait by Shoko Nagano


※ シカゴでの加藤登紀子さんのコンサートの様子はこちらをご覧ください。


■ 加藤登紀子 Tokiko Kato
1965年東大在学中に第2回日本アマチュアシャンソンコンクールに優勝し歌手デビュー。
「ひとり寝の子守唄」「百万本のバラ」「知床旅情」などヒット曲がある。
歌手活動は年間を通して国内外で行っており、カーネギーホールで2度のコンサートを成功させたのに続き、'92年にパリのラ・シガール劇場でのコンサートが認められ、フランス政府より文化勲章「シュバリエ」が贈られた。

東日本大震災後には被災地を度々訪れ復興支援活動も行っている。
歌手生活50周年を記念して2015年6月にラトビアのリエパーヤ交響楽団とコンサートツアーを行う。「鴨川自然王国」理事。WWFジャパン顧問。
最近のCDリリースは、オリジナルミニアルバム「愛を耕すものたちよ」、4枚組ベストアルバム「加藤登紀子半世紀BEST 終わりなき歌」がある。
また、デビューからの貴重なライブ映像を収録した50周年記念DVD「加藤登紀子の半世紀 その胸の火を絶やさずに」も好評発売中。

● オフィシャルホームページ:
 http://www.tokiko.com



ホーム | 初めての方へ | お問い合わせ | 投稿者&ライター募集中! | 規約と免責事項 | 会社概要

Copyright (c) 2005 US Shimbun Corporation. All Rights Reserved.