“魂のピアニスト”フジコ・ヘミング・ピアノコンサート&特別インタビュー

 

 3月28日、シカゴ日米協会(http://www.jaschicago.org/)の創立85周年記念イベント「“魂のピアニスト”フジコ・ヘミング・ピアノ・コンサート」がシャンバーグ市で開催され、会場には5年ぶりのコンサートを待ちわびていた約200人の観衆が詰めかけた。
 第一部、フランス近衛隊風の衣装で颯爽と登場したフジコさんは、シューベルト『Impromptu op.90 No.3』、ラヴェル『亡き王女のためのパパーヌ』、ドビュッシー『雨の庭』、ラフマニノフ『Prelude Op.32 No.5』、モーツァルト『トルコ行進曲 第1〜3楽章』といったなじみのある楽曲を披露。第二部は着物を素敵にアレンジした紫の衣装に着替え、ショパンの『ノクターン』、リストの『ため息』などのオハコをダイナミックに演奏、ラストは彼女の代名詞ともなっているリストの『ラ・カンネネラ』で締めくくった。観客のスタンディングオベーションに応え、アンコールはベートーベンの『皇帝』。鳴り止まぬ拍手の中、清々しい笑顔と共にステージを後にした。


 

 1999年にNHKで放送された「フジコ〜あるピアニストの軌跡〜」が放映当時大きな反響を呼び、その後発売されたCD『奇蹟のカンパネラ』は日本のクラシック界では異例の大ヒットセールスを記録するなど、たちまち“時の人”となったフジコさん。16歳で右耳の聴力を、ドイツ留学時代には左耳の聴力を失う(今は約40%回復)という、ピアニストにとって致命的なアクシデントに見舞われ、音のない世界で失意の2年間を過ごした。その壮絶な経験を経て、魂で弾くピアノが研ぎ澄まされた。83歳の現在も積極的にコンサートをこなす。「日本ではもうスケジュールがいっぱいできついもいいとこ。だからアメリカに逃げてきたの」といたずらっぽく笑うフジコさんに、コンサートを前にしたある朝、お話をうかがった。

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西郷さんのような母。ピンカートンさんのような父
 フジコさんは、1932年12月ロシア系スゥエーデン人の建築家・画家の父、ヨスタ・ゲオルギー・ヘミングと、日本人ピアニストの大月投網子との間に生まれた。日本で生活を始めるも、フジコさんが5歳の時、父はスゥエーデンに帰国。以来、女手一つで二人の子供を育てた厳しい母、そして晩年までほとんど会う事のなかった父。フジコさんにとってふたりはどんな存在だったのだろう。

 「母は西郷隆盛みたいな人でした。純粋で男勝りで思ったことをズバズバ口に出してしまうような。お嫁にもらってくれる人は日本にはまずいないだろうから、「金をやるからドイツに行って向こうで見つけろ」って言われたそうです。これがまたとんでもない男にひっかかって。
 父は(『蝶々夫人』の)ピンカートンみたいな人。しばらくはこの女と結婚して日本で暮らしたら楽しいだろう、っていうくらいの気持ちで結婚した無責任な人でした。母は外人と結婚した変わった女、ということで年中秘密警察に付け回されていて、警察に呼び出されては泣きわめいていた記憶があります。父は絵が上手くて、当時日本郵船に頼まれて書いたポスターを東京の国立近代美術館で見たときはすごく感激しました。私も少なからず彼の血を受けているんだろうなぁと思いますね。
 父は女ったらしでうそつきでとんでもない奴だった。それでも、父だから・・。ずっとあとになってスウェーデンで再会しましたけれど、写真で見ていた若くて素敵な姿からはかけはなれていて、ちょっとがっかりしました」

母親譲りの男運?と・・・
 「私は自分のほうから人を好きになったってことなんてないの。でも寄ってくるのはろくな奴いないですね。好きな人ができてもみなダメ男で、結婚の相手にならなかった。大恋愛したドイツ人の指揮者はすごい女たらしで悪いやつだったの。その人はゲイだったんだけど、そのあと好きになった人もゲイ。私ってよっぽどゲイに縁があるんだわ(笑) もうホモセクシャルはこりごりと思っていたけれど、今一番パリで一番親切にしてくれる人はゲイのカップルなんですよ。今、想いを寄せている人?・・・・います。以前共演した人です。みんなでしゃべっているとき「私が死ぬときには・・」って言ったら、こうやってそっと(肩に)手をまわしてくれたのよ。そうやって始まったんです。すごくいい人。でも、私じゃ悪いと思う。迷惑かけちゃうんじゃないかしらと思って。お友達からは3か月だけでも一緒に暮らしてみなさいよ、って言われるんですけれどね。そのうち鼻についてくるからって(笑)」

 
フジコさんの趣味は絵画。彼女のCDジャケットの絵は全てご自分が描いた絵が使われている。
左:CD『フジコ・ヘミング ソロ』 右:DVD『FUZJKO HEMMING A L'HOTEL LAMBERT Paris』

 「小学校の頃は学校の勉強もピアノも大嫌いでした。得意だったのは、絵を描くことと作文。作文は先生によく褒められました。母は、私たちを食べさせるためにピアノを外に教えに行っていたので夜になるまで帰ってこないの。だから私は学校から帰ると鞄放っぽり投げて近所のガキ大将と一緒に遊んでました。学校(青山学院)はクリスチャンの学校ですけれどおうちが仏教徒の子なんかもいていじめられたことは全然なかったんです。でも学校から弟と歩いて帰る途中で子供たちに待ち伏せされて「異人!異人!」って石を投げられたこともありましたよ」

 5歳から母の手ほどきでピアノを始め、10歳からドイツ系ピアニスト、レオニード・クロイツアー氏にも師事。クロイツアー氏は、「フジコはいまに世界中の人々を感激させるピアニストになるだろう」と絶賛した。


ピアノ教育、古今東西
― 日本のピアノ教育は、とかく譜面通り、先生の言うとおりきっちり弾くことを強要されますが。
 「とんでもない間違いですよ。私は母からピアノを習いましたが、ベートーベンやモーツァルト、シューベルト、ハイドンの初期の頃(の練習曲)はつまんないものばかりで全く愛情が起きなかった。それを押しつけられたものだからピアノを見るのもうんざりだったんです。でも母がいないとき、こっそりショパンの楽譜を持ってきて弾いてみたらものすごく感激して、なんでこんな素敵な曲を弾かせてくれないのかしらと思いました。その後、私のピアノを聞いたロシア人の先生が私に最初にくれた曲がドビュッシーの『アラベッスク』でした。それを聞いたとき、なんて天国から聞こえてくるように素敵な、私に合った曲かしらと感激しました。
 母は、本当にバカみたいに厳しかった。私が弾いていると台所のほうから「音が揃ってない!」って怒鳴るんです。それって機械みたいに弾けってことじゃない?私のピアノは魂から湧き出るものだから機械みたいに揃っている必要はないんです。絵だってそう。みんなが同じように塗りつぶしたらつまんない。ムラがあるからいい絵になるのよね」



 子供の頃から外国に憧れ、パリに留学することを夢見ていたフジコさん。しかし、自分には国籍がないことがわかりいったんは道が閉ざされたが、駐日ドイツ大使が「難民」として特別に彼女のベルリン音楽大学留学を援助、28歳でドイツ留学を果たした。


 「私は10歳くらいの頃から芸術の都パリに猛烈に憧れていて、本当はパリに行きたかったんだけれど、ドイツから奨学金をもらってたからドイツに行くしかなかった。ドイツではずいぶんいじめられて嫌な思いもしましたけれど、そのうち恋人もできて離れられなくなっちゃって。ドイツは世界で一番多く寄付をしている国、世界で一番猫を飼っている国なんです。だから悪いわけがないのよ。ドイツ人のいいピアニストや指導者が昔はたくさんいましたが、ユダヤ人が追い出されてしまってからはすっかりいなくなってしまいましたね」

奇跡のカンパネラ
― フジコさんの代名詞と言えば、リストの『ラ・カンパネラ』。カンパネラを弾くときはどういう情景を思い浮かべていますか?
 「イタリアかどっかの教会の鐘かもしれないですね。でもあまり意識しないですよ。大練習曲で最も難しい曲の一つで、音を飛ばさないように弾くのが難しいんですけれど、私は1回も音を飛ばしたことがないんです。目をつぶってでも弾けるの。みなさんはこの曲の最後の力強いところが好きって言ってくださいますが、私は中盤の柔らかいところが好きです。よく人から「あなたはすごく強い音で弾きますね」と言われますが、ただ強いんじゃない。ドイツの批評家が『フォルティシモのところでも一つ一つの音が引き締められている』と書いてくれたことがありましたがそのとおりでうれしかった。批評と言えば昔、ニューヨークタイムズですごく意地悪な批評を一面に書かれたことがありました。批評家のなかにはうぬぼれた人が多いから。そういう時は放っておくの(笑) 最近は見に来てくださったみなさんが(SMSなどで)感想を書いてくれるから」

― フジコさんの半生をドラマ化した『フジ子・ヘミングの軌跡』(主演:菅野美穂)のなかで、若き日のフジコが酒場でJazzを演奏するシーンがありましたが。
 「クラシック以外の音楽も弾きますし好きですよ。若い頃、東京の一番大きな中華料理屋で毎晩ピアノを弾いていました。私のことを目当てに来てくださるファンがいっぱいいました。中にはアメリカの将校さんもいて、「アメリカに来なさい」って言ってくれたり。昨晩はシカゴで(有名ブルースクラブ)“Buddy Guy’s Legends”にブルースを聞きに行きましたけれど、すごくよかった。今の音楽って、みんな怒鳴ってるような、次の日には覚えていないようなものが多いですけれど、ブルースみたいにちゃんとしたメロディーになっている音楽はすごく好きですね。(笑)」

クラシックの世界では記録的な売上を現在も更新中のファースト・アルバム。(1999.08)
<第14回 日本ゴールドディスク大賞 クラシック・オブ・ザ・イヤー受賞作品>



「好きな作曲家は、ドビュッシー、ラヴェル、ラフマニノフ。今一緒に共演してみたいのは、ベネズエラの(指揮者)ドゥダメルですね」

35年間のベジタリアン。病気知らず。
― 一日4時間の練習をこなしながらコンサートスケジュールもびっしり。この体力を維持する秘訣は?
 「毎朝起きたときに必ず体操をします。毎日4時間は練習するので、腕がパンパンになるの。それから私は肉も魚も食べないんです。35年間、主食は豆やジャガイモです。朝はコーヒーとトースト。夜まで何も食べません。オレンジジュースとリンゴジュースはたくさん飲みます。ドイツの音楽学校で15年間教師をやっていたときも、健康保険を一度も使ったことがないんですよ。日本でお医者に行ってもどこも悪くないって言われます」

宗教観と生きとし生けるものを愛する心
― 過去のインタビューで「私の国籍は天国」とおっしゃっていましたが、フジコさんご自身の宗教観はどのようなものですか?
 「私自身はクリスチャンとして洗礼を受けました。母は仏教徒でしたが忙しくて子供を教育する暇がなかったから、私たちをクリスチャンの日曜学校に入れたんです。父は全くの無神論者。でも、宗教は関係ない。その昔、若かりしチャップリンが老齢のラフマニノフと対談した時「あなたの信仰は何ですか?」と尋ねたら、「信仰なんてないよ。僕の芸術が神であり信仰だ」と答えたそうです。チャプリンは老いてからこのことを思い出して「彼の言うとおりだった。あの時の自分が恥ずかしい」と言ったそうです。今、世界で起こっているアラブ人によるテロの問題だっておかしいですよ。戦前の日本でも「天に代わりて不義を撃つ」なんて皆んな平気で歌っていましたが、バカげたこと。誰が不義なのよ、って。神様に代わって人を殺せなんて、どこの宗教にも書いていません」


 フジコさんは公演活動で多忙を極める中、猫や犬をはじめ動物愛護への関心も深く、長年の援助も続けている。また、アメリカ同時多発テロ後の被災者救済のために1年間CDの印税の全額寄付や、アフガニスタン難民のためのユニセフを通じたコンサート出演料の寄付、3.11東日本大震災復興支援チャリティーコンサート及び被災動物支援チャリティーコンサートといった支援活動も続けている。


 「動物を放っておけないのは、スウェーデンで動物病院の院長をしていた父方の曾おじいさんがの血をひいているからかもしれません。東京の下北沢の自宅では、猫を50匹飼っています。怪我をしたりよそで飼えなくなった犬や猫を引き取っているうちにどんどん増えちゃって。だから、世田谷のうちの近くでは野良猫はもういないっていわれています。それから、津波で親を失ったペットが医療を受けられる施設を作るためにも寄付をしました。ほかにも、アフリカのある国で井戸を掘るのに私のお金が使われたと聞き、感激しました。今までに(人道支援には)ずいぶんとお金を出しました。ちゃんと使われずにごまかされたこともありましたが、ごまかされるとわかっていてもやらないわけにはいかないから」




■ “フジコ・ブーム”の引き金になったNHKのドキュメンタリーを、当時私は自宅で見ていた。以来、胸に秘めていた、彼女のピアノを生で聴きたいという想いが約15年後にシカゴでかない、幸運にもインタビューをさせていただく機会にまで恵まれた。自分自身、日本を離れ、さまざまな文化、人、音楽に触れてきたそのあとでやっとフジコさんの音に対峙できたことは、いろいろな意味でとても幸運だった。
 聴力を失った“悲劇のピアニスト”、“激動の人生”などと、とかくドラマティックな生き様部分だけが日本のメディアに強調されてとりあげられてきた。彼女自身は何も変わっていないのに、大きな渦に巻き込まれたこの10年間、彼女の名声を利用しようとした人間によって何度も傷つき、人間不信になったこともあったとか。しかし、ご本人は「これもすべてが運命だから」とさらりと受け止める。
 音楽は、どう批評するかではなく、どう感じるか。それは聴く側がどう生きてきたか、の証しでもある。

 「音は心で感じるもの。私の一番のとりえは音色。出来がいいかどうかは私が一番よく知っているから」(フジコ・ヘミング)



   2016年3月24日 Union League Club of Chicagoにて
   文責/ 撮影(ポートレイト):長野尚子/その他の写真:フジコヘミングオフィシャルWebサイト


     ■フジコ・ヘミング プロフィール

本名:Ingrid Fuzjko af.Georgii-Hemming(イングリット・フジコ・ゲオルギー・ヘミング)

 東京音楽学校(現・東京芸術大学)出身のピアニスト、大月投網子とロシア系スェーデン人画家/建築家ジョスタ・ゲオルギー・ヘミングを両親としてベルリンに生まれる。5歳の時、帰国。以来母の手ひとつで東京に育ち、5歳から母、投網子の手ほどきでピアノを始める。また10歳から、父の友人だったロシア生まれドイツ系ピアニスト、レオニード・クロイツアー氏にも師事。クロイツアー氏は、「フジコはいまに世界中の人々を感激させるピアニストになるだろう」と絶賛した。青山学院高等部在学中、17歳でデビュー・コンサートを果たす。また、東京芸大在学中には、NHK毎日コンクール入賞、文化放送音楽賞など多数受賞。東京芸大卒業後より、本格的な演奏活動に入り、渡辺暁雄指揮による日本フィルなど、数多くの国内オーケストラと共演。たまたま来日中だったサンソン・フランソワは、日比谷でのフジ子のショパン及びリストの演奏を聴き絶賛したという。
 その後28歳でドイツへ留学。ベルリン音楽学校を優秀な成績で卒業。その後長年にわたりヨーロッパに在住し、演奏家としてのキャリアを積む。その間、ウィーンでは後見人でもあったパウル・バドゥーラ=スコダに師事。今世紀最大の作曲家・指揮者の一人と言われる、ブルーノ・マデルナにウィーンで才能を認められ、彼のソリストとして契約したことは、フジコが最も誇りにしていることのひとつである。ちなみに、この契約に際しては、フジコの演奏に感銘を受けたレナード・バーンスタイン、ニキタ・マガロフ、シューラ・チェルカスキーからの支持、及び援助があった。しかし「一流の証」となるはずのリサイタル直前に風邪をこじらせ、聴力を失うというアクシデントに見舞われる。失意の中、ストックホルムに移住。耳の治療の傍ら、音楽学校の教師の資格を得、以後はピアノ教師をしながら、欧州各地でコンサート活動を続ける。
 1999年2月11日には、フジコのピアニストとしての軌跡を描いたNHKのドキュメント番組、ETV特集『フジコ?あるピアニストの軌跡?』が放映され大反響を巻き起こす。「フジコの演奏をもっと聴きたい」という視聴者からの要望が殺到し、番組は幾多に及び再放送され、さらに続編「フジコ、ふたたび?コンサートin奏楽堂」も放送された。
1999年8月25日に発売されたファーストCD『奇蹟のカンパネラ』は200万枚(2012年4月現在)を超える売り上げという、クラシック界異例の大ヒットを記録し、いまだにその記録を更新し続けている。これまで2枚のCDで日本ゴールドディスク大賞、4度にわたる各賞のクラシック・アルバム・オブ・ザ・イヤーを受賞。
 2000年以来、モスクワフィルハーモニー管弦楽団、ハンガリー国立フィルハーモニー管弦楽団、ハンガリー放送交響楽団、ベルギー国立管弦楽団、イギリス室内管弦楽団他と共演。2001年6月には、ニューヨーク・カーネギーホールでのリサイタルに3000人の聴衆が会場を埋め尽くし、感動の渦を巻き起こした。集まった聴衆からは「マリア・カラス以来の大盛会」と絶賛の声が絶えず、大成功とともに演奏活動の幅を世界へと広げるための第一歩を踏み出した。2007年より現在までワルシャワショパンフェスティバル、パブロ・カザルスインターナショナルフェスティバル、ソフィアインターナショナルフェスティバルなどから招待されている。その他この10年にわたる世界中の伝統あるコンサートホールでのソロ公演や世界の第一線で活動する著名オーケストラ、ロイヤルフィルとの共演は枚挙にいとまがない。彼女と協演した際、ミシャ・マイスキーは“忘れ得ないピアニスト”、マキシム・ヴェンゲーロフは“あなたの芸術を賞賛します”と形容している。その他共演した多くのアーティストから絶賛されている。
 2012年には、ビクターやユニバーサルの名門レーベル・Decca Recordsから数多くの名盤をワールドリリースしてきたフジコだが、ついに自主レーベルである「ダギーレーベル」を設立。これは、フジコ自身がリスナーに届けたい曲を、納得できる音質で録音し、世界に発信するという本人の音楽に対する強い決意によりために設立された。



●フジコ・ヘミング 公式HP : http://fuzjko.net/


●2016年日本全国ツアーのお知らせ(5月〜7月):
https://www.youtube.com/watch?v=HrcHXOzi3aE



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