テツさんのイリノイ歴史探訪


著者略歴 テツ

現住所:エバンストン
紹介:普段は金融関連の仕事をしてますが、時々アマチュア地域史研究家の帽子をかぶっております。 よろしくお付き合いください。

                  水の都シカゴの歴史あれこれ(1)

 ダウンタウンを貫くシカゴ川に何個も橋がかかる風景は、シカゴならではですよね。 普段は何気なく渡る橋ですが、その下を流れるシカゴ川が、シカゴの発展に大きな影響を与えてきた歴史については、あまり気にとめる人は多くないかもしれません。 

 この連載ではまず、中西部ひいては米国全体の中で、シカゴが水運から始まってどのように交通と産業の中心地になっていったのか−というテーマで、地味な役者のシカゴ川にスポットライトを当ててみようと思います。 なにせ歴史の話しですから、話しはあちらこちらに飛びますけど…。 

 申し遅れました。 私Evanston在住のテツです。 普段は金融関連の仕事をしてますが、時々アマチュア地域史研究家の帽子をかぶっております。 よろしくお付き合いください。 初回は、1673年から1818年までです。

 1673年に西洋人として初めて現在のシカゴに到着したのが、仏領カナダの探検家ルイス・ジョリエット(Jolliet)とジャック・マルケット(Marquette)牧師でした。 (ジョリエットの名前は、シカゴの南西部の郊外の町の名前として残っています)

 当時のシカゴは、ミシガン湖から1〜2フィート高いだけの湿地帯で、その名前は、シカゴ川の河口付近に茂っていた野生のガーリックやオニオンを意味する先住民(ネーティヴ・アメリカン)の言葉「Chicagou」から来ています。  (シカゴの水はけ問題は実は現在に至っても大きな課題で、この点については後ほど触れることといたしましょう。)

 シカゴ西部のデス・プレインズ(Des Plaines)川沿いに東進してきたジョリエットは、川が切れたため、 その後Chicago Portage(あるいはMud Lake) と言われるようになった地域で一旦カヌーを降り、その後再びシカゴ川に ぶつかって、ようやく現在のシカゴのミシガン湖岸に到着しました。 Chicago Portageは現在の西の郊外の高速道路I-55とHalem Avenueの交わるあたりで、大昔に 氷河がミシガン湖を削った際に残していった盛土の跡にあり、真平らのプレーリーの中ではちょっとした高みになっていたのです。 この地形ゆえに、シカゴ近辺の河川は、Portageから東にミシガン湖に流れ込むシカゴ川と、西に流れるデス・プレインス川に分かれておりました。 当時は沼地を縫うように走る浅い冴えない川であったのですが、ジョリエットは探検家らしく、二つの川をつなぐことの意義をいち早く見出し、次のように記録しています:「この近辺のプレーリー(平原)を少々掘って運河を作れば、ミシガン湖と、ミシシッピ川に流れるセントルイス川(現在のイリノイ川)がつながり、簡単にメキシコ湾まで下ることが出来る…」

 もう、お気づきですよね。 当時の仏領カナダの探検家達は、同じく仏領メキシコ湾岸(ニューオーリンズ)とセントルイスを結ぶミシシッピ川の水上交易ルート(先住民との毛皮取引などが、もっぱら交易の中心)を幹に、さらに北(ミシガン湖)、あるいは東西にどのような水路を開拓し得るかを一生懸命探していたのです。 

 
このあと、現在のイリノイ地域は1717年に仏領ルイジアナの一部となり (この時期のフランスは、北米ではミシシッピ川、セント・ローレンス川、五大湖、オハイオ・バレーといった主要な水路を全て押さえた実に広大な植民地を有していました)、

 1763年に一旦英領だった時期を経て(フランスと英国の間のFrench Indian Warの結果フランスは敗北、独立戦争までの短い10年間、カナダを含む北米はすべて英領となった)、独立戦争を経て1778年に合衆国領となり、1787年には現在のインディアナ州Fort Wayne(ウェイン砦)管轄下のIndiana  Territoryの一部となりました。 

 ジョリエットのミシシッピ川を結ぶアイデアが、実際にIllinois Michigan Canal(略称I&M Canal)の建設着工の形で実を結んだのは、随分あとの1814年になってからで、この年にマジソン大統領が連邦のプロジェクトとしての運河の建設を命じたのです。 

 これに先立つ1803年にディアボーン砦(Fort Dearborn)が建設され、砦に駐屯していた兵士達と連隊長が先住民に虐殺された1812年Fort Dearborn Massacre事件(註1)を契機に合衆国軍の反撃と先住民の駆逐が始まり、1816年にポトワトミ・インディアンがシカゴ川周辺の土地を明け渡しに応じる形で先住民とのこの地域における力関係が決着したことが、丁度この世紀の運河プロジェクトが開始されるタイミングともなったわけです。 この大きな変化の最中の1818年に、イリノイ州が合衆国21番目の州となりました。

 次回は、I&M運河の建設の話です。

(註1) ディアボーン砦は、現在のミシガン・アベニュー橋(リグレー・ビル脇の橋)の南端に位置しておりました。


 顔を戦闘色に塗った先住民Potwatomiが見守る中、砦から兵士と一般市民が粛々とインディアナのフォート・ウェインに向けて撤退退出した後、同じ先住民によって現在のPrairie Avenueと18番街のあたり(中華街の少々東ですね)で148人の兵士と一般市民が殺戮されました。 今は簡単な金属板の説明書が残っているだけですが、時折近くの空き地ではこのとき殺された人達の幽霊が出るそうな。 このときに勇敢に戦って殺された連隊長のWilliam Wellsの遺体が埋葬されたところが、現在のWells Streetです。

*出典
1.  Prairie Passage - The Illinois and Michigan Canal Corridor by E. Ranney, T. Hiss, E. Harris (University of Illinois Press)
2.  The Chicago River: an Illustrated history and guide to the river and its waterways by D. Solzman (Loyola Press)


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