多佳子さんのイリノイこぼれ話

著者略歴 デイ多佳子

神戸出身。滞米生活21年目を迎えたフリーランスライター。カリフォルニアはバークレーに始まり、サウスダコタ、イリノイと東進して、いよいよイリノイ生活が一番長くなりました。シカゴ・イリノイ大好き人間です。最新刊「観光コースでないシカゴ・イリノイ」(高文研)が日本全国の書店、及び在米日系書店、アマゾンで発売中。
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勝っても負けても、メモリアル

 アメリカインディアンの歴史といえば、やはり一般的には“敗者”の歴史となるでしょうか。 何もわからずにこの国にやってきた白人たちを助けてあげたというのに、やがて西へ、西へと追いやられ、居留地に追い込まれていきました。

 イリノイに居留地はありませんが、もちろんインディアンの歴史はあちこちに残っています。一番大きな史実はやはり、リンカーンも従軍して、殺したのは蚊ばかり、というブラックホーク戦争でしょう。


 ブラックホークのインデイアン名はマ・カ・タエ・ミッシュ・キア・キア。1767年に、ロックリバーがミシシッピ河に注ぎ込むあたり、今のロックアイランド近くにあったサーク国サークヌック村生まれ。 今、このサークヌック村あたりが自然公園になって、ブラックホーク州立歴史記念地と名づけられています。

 面白いのは、この公園に、サーク族のチーフ、ザ・ブロークン・ハンドを称える小さな碑が埋められていることです。 時は、独立戦争まっただなかの1779年、英国領だったサークヌック村で、ザ・ブロークン・ハンドはなぜか英国軍に抵抗、アメリカ側につきました。 だから、もちろんメモリアル。

 それから四半世紀が過ぎた1804年、サーク族の一部がアメリカ政府と結んだ条約は理不尽だとブラックホークはアメリカと対立、1812年の英米戦争では英国に組みしてアメリカと戦いました。 反逆者!ブラックホーク!ー1831年と1832年の2回にわたるブラックホーク戦争の結果、サーク族はイリノイから西へと追いやられ、姿を消しましたが、それから200年、時代は変わり、自然公園にはブラックホークの名前が冠されて、やっぱり、メモリアル。

ブラックホーク戦争の緒戦で、政府軍の負け戦となったスティルマンバレーでは、リンカーンが戦死者を埋める“穴堀り”をして、“神聖な場所”になったというので、これまた、メモリアル。


最後の戦場となったケントにもメモリアル。 緑の地平線にぐるりととり囲まれ、平坦な地形をさえぎるものは何もない、かつてケロッググローブと呼ばれたプレーリーのど真ん中。 パイオニアたちは、小さな丘の上に、あたり一面にちらばっていた政府軍の兵士たちの墓を集めてモニュメントを建てたのです。 曰く「今、生きている我々のために死んでくれた英雄たちへ」

 そして、イリノイ・ミシガン運河の町、モリス。 ここのエバーグリーン墓地には、1859年に死んだポタワトミ族のチーフ・シャボーナの立派な墓があります。 「平和を愛した優しい紳士であり、白人入植者たちが心からの信頼をおいた友達」と刻まれていました。 白人が作ったインディアンの墓なんて初めて見ました。 墓には、小さな星条旗まで飾られています。


 どうやらシャボーナはブラックホークが嫌いで、1812年の英米戦争ではアメリカ側につき、その後もアメリカとつながり、白人との戦闘を避けることを選んだ人物です。 ブラックホーク戦争でも、白人パイオニアたちにブラックホークたちの位置や攻撃が迫っていることを知らせ、白人たちの命を救いました。 どうりで、メモリアル。


 その後、土地を与えられて定住、食事をともにするなど、白人とのご近所づきあいも熱心だったそうな。 ポタワトミのシャボーナとしては、サークやフォックスに思い知らせてやりたい気持ちでもあったのかもしれません。 が、シャボーナは部族を裏切ったと考えたインデイアンは、のちにシャボーナの息子や甥をミズーリ西部で殺しています。 政府軍によるウイスコンシンでの虐殺を逃れて、ミシシッピ河の西に生き延びたブラックホークの戦士たちも、その後スー族に殺されてしまったとか。 ああ、いつの時代も、人の世はなんと生きにくいことか。

 今はもう、ただただ、この地球上に生まれ、生きた証に、メモリアル。

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