多佳子さんのイリノイこぼれ話

著者略歴 デイ多佳子

神戸出身。滞米生活21年目を迎えたフリーランスライター。カリフォルニアはバークレーに始まり、サウスダコタ、イリノイと東進して、いよいよイリノイ生活が一番長くなりました。シカゴ・イリノイ大好き人間です。最新刊「観光コースでないシカゴ・イリノイ」(高文研)が日本全国の書店、及び在米日系書店、アマゾンで発売中。

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                    棲み分け


 このごろ、シカゴを、いやアメリカを理解するのに一番大事なことは、どうやら「棲み分け」を理解することらしいという気がしてきました。通りが一つ違えば、世界が変わります(悲)

 観光案内のシカゴ本には“棲み分け”は出てきません。たとえば、シカゴ市南部にあるシカゴ大学は、その学問的貢献と名声が称えられ、キャンパス内にあるフランク・ロイド・ライトが作ったルビー邸には観光客が足を運んでも、周辺コミュニティに目を転じれば、大学がかつて“棲み分け”を頑固に主張して、大きな社会問題となったことは、シカゴの記憶から抹殺したいと思いこそすれ、案内本が語ることは絶対にないでしょう。でも、思うのです、棲み分けはこれからもずっと続くかもなあ、と。人が、人である限り。(悲)

 シカゴ大学の東には、1893年にコロンビア博が開かれたジャクソン公園があって、公園の北端に産業科学博物館がありますから、観光客も多く、ループとおなじ感覚といってもいいでしょう。ところが、大学の西境となるコテージグローブ街に接するワシントン公園に、足を運ぶ観光客はいるでしょうか。いません。コテージグローブ街から西はアフリカ系コミュニティだからです。

 1920年代当時、この南北に走るコテージグローブ街を境界線にして、東は白人中・上流階級、西はウェントウォース街までがブラックベルトと呼ばれるアフリカ系コミュニティでした。現在のダン・ライアン高速道路(90・94号線)と肩を並べているウェントウォース街の向こうには、再び白人の、それも下層階級のコミュニティが続いていました。コテージグローブ街の東では、51番通りから北へ43番通りまでは、かつてハイドパークーケンウッド地区と呼ばれ、立派な大邸宅が並んでいました。が、今は、47番通りを境に二分されています。南側の47番から51番のあいだ、それもエリス街とグリーンウッド街、そしてウッドローン街に囲まれた計8ブロックほどに、昔の面影が残っています。オバマ大統領の屋敷は、51番とグリーンウッド街の角です。

 大統領に選出される前はきれいな屋敷だったのに、最近のぞくと、グリーンウッド街の角に、「住民以外は通行禁止」の大きな看板が仁王立ちし、その横をすり抜けて、屋敷近くまで行くと、醜いバリケードははりめぐらされてるわ、怖い兄ちゃんうろうろ、高い樹木はばっさり切り倒されてるわ、で、通りの景観は様変わりしていました。不動産の価値、下がったのでは、と思ったけれど、not my problem(笑)

 
シカゴ大学の北端は55番の大通り、南端は61番通りです。かつて、ワシントン公園の南端の60番通りと63番通り、そして公園の西境となる現在のマーチン・ルーサー・キング・ドライブに囲まれた小さな一角が、コテージグローブ街の西にもかかわらず、白人の“島”でした。ここに、アフリカ系の人間が入ってくるのに必死で抵抗したのが1930年代のシカゴ大学です。

 ハイドパーク地区からキャンパスの南、ウッドローン地区の不動産を多数所有していた大学は、不動産価値が下がるのを食い止めようと、人種差別的な住居契約書をつくっていました。つまり、ある特定グループの人間に家を売ったり、リースしたり、賃貸契約を結ばないというものです。特定グループとは、時にユダヤ人だったり中国人だったりしましたが、シカゴではもちろんアフリカ系でした。

 大学が批判にさらされたのは、二枚舌に思われたからです。教室では、民主的でリベラルなことを教えて、立派な高等教育機関の顔をしているくせに、裏の顔はなんと偽善的な、というわけです。が、どんなに抵抗しても、押し寄せる現実の波には抗することができず、1940年代に、小さな“島”はアフリカ系コミュニティとなりました。現在は、コテージグローブ街の東、シカゴ大学南のウッドローン地区までアフリカ系コミュニティが広がっています。

 共生とは、言うは易しの美しい言葉ですが、土地という、自分の属するスペースとその所有に特別の思いがあるらしいアメリカ人は、不動産価値を厳しく問いますから、異人種との共生・共存は、大手を振って簡単には受け入れられないのが、今も続く悲しい現実です。

 戦時中の1943年、収容所からシカゴに出てきた日本人、日系アメリカ人の棲み分けは、シカゴ北部と南部に分かれました。南部では、コテージグローブ街の東、55番通りを中心に、南北に広がっていました。古い「シカゴ新報」には、55番通りにあった酒屋さんや食料品店の広告がずらりと並んでいます。

 人間の業の深さを思ったのは、棲み分けが生きているときだけではなかったことを知ったときでしょうか。1940年代のシカゴの墓地は、非白人の埋葬を拒否、日系人の埋葬を受け入れてくれたのは、ウッドローン地区よりはるか南西の127番通りにある黒人墓地、バーオークだけだったとか。同様のアジア人埋葬拒否は、ワシントンDCでも行われていました。「ああ、何たる矛盾! 民主主義国家首都華府で 日系人に対しこの差別」(「シカゴ新報」1950年12月13日付)

 それから20年。公民権運動の時代に、有吉佐和子は「非色」を発表しました。確かに、(膚の)色に非ず、とはようくわかっているのですが。。有吉佐和子曰く、問題は色ではないのだ、人種差別は階級闘争なのだ。(角川文庫395ページ)でも、人の気持ちの境界線は、“棲み分け”ほどすっきりはっきりできるものでなし。。。たぶんこれからも、“棲み分け”はずっとずっと続いていくのだろうなあ。。(悲)


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