多佳子さんのイリノイこぼれ話

著者略歴 デイ多佳子

神戸出身。滞米生活21年目を迎えたフリーランスライター。カリフォルニアはバークレーに始まり、サウスダコタ、イリノイと東進して、いよいよイリノイ生活が一番長くなりました。シカゴ・イリノイ大好き人間です。最新刊「観光コースでないシカゴ・イリノイ」(高文研)が日本全国の書店、及び在米日系書店、アマゾンで発売中。

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               グーテンベルグのシカゴ


 友だちが、E-Bookの利点をあげてくれました。本は重い、かさ張る、 置き場所に困る、汚い・擦り切れる、暗いところで読めない.熱帯雨林がかわいそう.インク代が無駄.高い流通コスト、人に貸したら帰ってこない.捨てる時,罪悪感を感じる.燃える。。この逆がE-Bookの利点になるわけです。てんこもりの電脳の利点を前にしても、今だに携帯すら持たない頑固な私は、ただただ「五感という身体感覚が人間の幸せ感につながっていると思うんだけどなあ」で終わり。(笑)本―ある一つの世界―を手にした触感がもたらす心の充足感は、大昔、小学校で配られたまっさらの教科書を開いたときに嗅いだ、あの独特のインクの臭いの記憶につながっていきます。さあ、これからまた新しい一年が始まるんだ、新しいことを学ぶんだという期待と喜び。。グーテンベルグさんも新しいインクの臭いに興奮したでしょうか。(笑)

 シカゴのコングレスパークウエーの南に、かつての「プリンターズロー」の小さな一角が残されています。シカゴは、19世紀後半にはすでに、ニューヨークに次ぐ全米2位の出版業の中心地でした。といっても、シカゴらしいなあ、とほほえましいのは、文学作品の出版ではなく、ビジネスや教科書といった実用向けだったことです。シカゴは全米の鉄道のハブですから、路線図や時刻表の印刷だけでも相当なビジネスになったでしょう。


 1868年ごろ、今日地図で有名なRand McNally & Coがシカゴで生まれています。同じころ、通信販売業もシカゴで生まれましたから、通販カタログ印刷の需要も急激な右肩上がりに。印刷工たちは酷使されたに違いありません。労働条件の改善を訴える組合運動も、この印刷業界から始まっています。


 1927年には1500もの大小印刷会社がシカゴにひしめきあい、3万人が働いていました。当然、財を成すものが現われる。その一つが、クネオプレスです。シカゴの北、バーノンヒルズの町に、クネオ家の邸宅が博物館になっているので、のぞいてきました。おお、富豪の生活とは。。かつて、2000エーカーもあったという敷地に建てられた邸宅には、立派なステンドグラスの礼拝堂や大理石のプール、吹き抜けになった大広間には14世紀のイタリアの絵画やタペストリーが壁狭しと。。ヨーロッパ世界の重厚さにいたたまれなくなって、そそくさと出てきました。(笑)
 シカゴの事業家、ジョン・クネオ・シニアがこの邸宅を手にいれたのは1937年のこと。1857年にジェノアからシカゴにやってきたイタリア移民の孫です。祖父母は農場経営を、その息子フランク・クネオは野菜の卸ビジネスで成功、そしてジョン・クネオは、1907年に、畑違いの製本業をはじめて、やがて印刷業界へ。インクではなく、お金の臭いを嗅いだんでしょうなあ。(笑)1919年にクネオプレスをたちあげ、1921年には、雑誌「コスモポリタン」など全米の有名雑誌と契約、1930年代にはシカゴ、ミルウォーキー、ニューヨーク、フィラデルフィアに、全部で5つの印刷工場をもっていました。長年、「サタデイ・イブニング・ポスト」といったシカゴの新聞やシアーズの通販カタログを作っていたのもクネオプレスです。工場は鉄道の引込み線を持ち、一度に68両もの車両で、1ケ月に1500万ポンド以上の原料が工場に運びこまれ、大量の多種印刷物となって、世界中に“ばらまかれ”ていきました。


 15世紀にグーテンベルグが発明した印刷機が、ドイツのマインツからシカゴまでやってきたことがありました。1933年、シカゴで開かれた「進歩の世紀」博覧会でのことです。もちろん、クネオプレスの会場で、印刷された世界最初の聖書の複製とともに展示されました。私自身も、数年前にマインツで見ましたが、書写の大変さを知らない私は、ふ〜〜〜ん、で終わり。(笑)

 しかし、製本というのは、手先の器用な人間を大量に必要とするでしょう。折り紙文化をもつ日本人・日系人はばっちりだったのでは。。。クネオプレスもまた、カーチス製菓会社と同じく、1943年春に収容所からシカゴに出てきた日系アメリカ人を気持よく雇ってくれた事業主でした。

 「ラッキーなことに5人の若い日系人が、一週間、われわれの工場で働いてくれたが、そのうちの3人は高学歴なので、別の職を見つけて去り、あとの二人は、もっとたくさんの日系人を連れてくると言って、アーカンソーの収容所に戻りました。25人から50人ぐらい雇いたいと思います。社長のクネオは、農場で働く日系人も探しています。」(1943年4月7日付)

 戦時中でも、日系人はいい働き手だと信用されたのです。そして、クネオプレスで製本技術を学んだ日系人から、また大きな製本・メーリング会社が生まれました。のちに、その経営者ともなると、「1週間の収入は27万ドル。日本円にしてざっと6700万円、月収に換算すると2億6800万円」だったとか(伊藤一男「シカゴに燃ゆ」9ページ)

 そんなに儲かるんですか。グーテンベルグさんが大金持ちになったとは聞いてませんけど。。。(笑)

 戦争が終わったあとも、クネオプレスと日本人・日系人の関係は続きます。「クニオ養鶏園 男子数名入用」「クニオプレス(テーマク街とキャナル角)にて、男女数10名入用 クニオプレス(キャナルと22街)一・二世を問わず 簡単な仕事。男子25名、女子50名 老人でも可 経験を要せず」(「シカゴ新報」1946年1月24日付)「大至急入用、日本人の会社なれば気兼ねがありません」(「シカゴ新報」1946年5月9日付)

 収容所を出て、職探しに奔走し、生き残りを賭けた時代、「老人でも可 経験を要せず」の仕事はどんなにありがたかったことか。今でもあるなら、私も働かせていただきたいです。(笑)

 クネオプレスから生まれた日系の会社で長年働いたIさんは、若かりし自分が自らの手で作った立派な本を、大事に手元に残していました。人にとっての「働く」の意味がそこにありました。E−Bookがなんぼのもんやねん。(笑)


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