多佳子さんのイリノイこぼれ話

著者略歴 デイ多佳子

神戸出身。滞米生活21年目を迎えたフリーランスライター。カリフォルニアはバークレーに始まり、サウスダコタ、イリノイと東進して、いよいよイリノイ生活が一番長くなりました。シカゴ・イリノイ大好き人間です。最新刊「観光コースでないシカゴ・イリノイ」(高文研)が日本全国の書店、及び在米日系書店、アマゾンで発売中。

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                    キャンディを食べながら


 私が生まれ育った町、神戸は港町でした。過去形なのは、もう今は、昔の“港町”の風情はきれいに消え去っているからです。昔、繁華街には、“エキゾチックジャパン”を売る外国人船員目当てのみやげ物屋やら、輸入雑貨や食料品を専門に扱う小さな店がありました。確か「ミッチャン」という店でした。通りを、水兵さんたちが数人ずつのグループで行き交い、時折、日本女性と手をつないで、わいわい楽しそうに歩いていました。

 まだ小学校の低学年だったと思います。ある夜、父が、「おみやげ」と言って、外国のキャンディをくれました。真ん中に穴があいていて、赤、黄色、青と数色のドロップ、今から思い返してみれば、「ライフセイバーズ(Life Savers)」だったと思います。一口食べて、まずう、で、それっきりとなりました。(笑)

 香料が強すぎて、食べられなかったのです。「向こうの人は、こんなもの食べてるんや」という死んだ父親の声がまだ耳に残っています。(笑)

 調べてみると、あのLife Saversが最初に売り出されたのは、なんと1912年。最初はペパーミント味だけだったそうな。私が食べて吐き出した5色になったのは、それから22年後だったとか。私が今だに食べるWrigleyのスペアミントガムが登場したのは、なんと19世紀の1893年。Hersheyのミルクチョコレートは1900年。私は嫌いですが、アメリカ人は好きそうなReese’s Peanut Butter Cupsは1928年、そしてM&Mチョコレートの登場は1940年です。どのお菓子も、神戸の「ミッチャン」には並んでいたかも知れませんが、あの当時の私には、店頭を飾る外国のキャンディはただただまぶしく、横目でちらっと見るだけで、そそくさと通りすぎたものです。

 人間の味覚は非常に保守的で、新奇なものはなかなか食べられないものです。外国旅行では、毎日の食事がかなりの「挑戦!」となるものですが(笑)、なんとまあ、Wrigleyのスペアミントガムが100年以上もこの国で生き続けているとなると、アメリカ人の保守度も相当なものですなあ。よくまあ、オバマ氏が大統領に選ばれたものだ。。(笑)

 1857年ごろのシカゴには、すでに40人以上の菓子職人がいて、19世紀末には、シカゴは、全米最大のキャンディ製造地だったとか。私が食べるガムのWrigley Companyは、1891年シカゴ生まれ。創業者のWilliam Wrigley Jrがシカゴカブスのオーナーだったゆえに、野球場にもその名が。同じくシカゴ発祥のFannie Mayとともに、1920年に販売されたのが Baby Ruth 。野球選手の名前ではありません。当時のクリーブランド大統領の娘の名前でした。今ももちろん売られています。日本を占領した進駐軍が、日本の子供たちに向けて投げたというキャンディの中には、Baby Ruthもあったかなあ。

 このBaby Ruthを作っていた会社が、日本人・日系アメリカ人と縁のある会社となりました。シカゴのCurtiss Candy Companyです。1916年、オットー・シュネーリング創業。Baby Ruthが大当たりして、会社は大きく成長、1930年代には、男性従業員数300人以上、女性従業員数1900人近くを抱え、1960年代の初めごろまでに、年間売り上げ60ミリオンドルを超えて、全米キャンディ業界のトップ10入りをしました。日本人、日系アメリカ人もベルトコンベヤの前に座って、お菓子の袋詰めをしたのでしょうか。

 1941年12月の日米開戦により、翌1942年3月には、西海岸の日本人・日系アメリカ人たちは、内陸部に作られた収容所へ送られました。でも、その年の終わりにはすでにアメリカ政府は、いかにして「良いアメリカ人」を収容所の外へ出そうか、と頭をひねっていました。働かさずして、食べさせるのはコストがかかるからです。出所の条件の一つは、就職先が決まっていること。収容所からの転住先の一つに選ばれたのがシカゴでした。入所から1年後の1943年3月にはすでに、収容所を出た若い日系人たちがシカゴをめざしました。彼らを雇った会社の一つが、Curtiss Candy Companyです。

 手元にあるプレスリリースによると、政府の戦時転住局(WRA)とカーチス社は、1943年春、日系アメリカ人16人を、私が今住むデカブ近くのマレンゴにある会社の農場で働かせる契約を結びました。収容所維持のコストを下げ、日系人を農場で働かせ、食料生産に励むことが戦時協力になるというカーチス社の論理には納得できるものがあります。

 会社は、農場の納屋を寮に改築し、マレンゴ市民には、“ジャップ”が近くに働きにくるよ、と前もって知らせ、住民投票をしたときは、83人中62人が賛成したのに、いざふたを開けてみると。。。マレンゴ市長が新聞に語って曰く、「その新来者たちが“良いアメリカ人”なのはわかっているが、やっぱり来ないほうがいい、ここの住民の多くは子供たちを戦場に送っているし、トラブルはごめんだ。それに、アメリカ市民の“ジャップ”は、我々を見張る日本のスパイだと聞いている」(「トリビューン」1943年4月21日付)

 1943年春といえば、もう戦局は日本が不利になりつつあった頃でしょうが、まだまだ戦時中であることには変わりありません。Baby Ruthを食べながら思うことー収容所に残るのも、出るのも大変だったろうなあと。(悲)

 古いシカゴ新報を見ていると、カーチス社の人員募集広告を見つけました。アーリントンハイツにあった「カーテス製菓会社農園における養鶏場のドレッシング部」が、料理のできる中年の一世婦人二名募集中。。。

 Baby Ruthを食べながら思うことーアーリントンハイツから、進駐軍を経て、神戸の「ミッチャン」まで、キャンディ一つと言えども、いつも甘くておいしいとは限りません。(悲)それにしても、アメリカ人はBaby Ruthを90年も食べてるのですか。おまけのついたグリコのキャラメルはどこ。(笑)


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