多佳子さんのイリノイこぼれ話

著者略歴 デイ多佳子

神戸出身。滞米生活21年目を迎えたフリーランスライター。カリフォルニアはバークレーに始まり、サウスダコタ、イリノイと東進して、いよいよイリノイ生活が一番長くなりました。シカゴ・イリノイ大好き人間です。最新刊「観光コースでないシカゴ・イリノイ」(高文研)が日本全国の書店、及び在米日系書店、アマゾンで発売中。

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                        鉄道仕事人 

 私はアムトラック旅行が大好きです。シカゴは長距離鉄道のハブですから、ユニオン駅から何度も列車に乗り込みました。近いところでは、デトロイトやミルウォーキー、東部へは、最短距離のクリーブランド、バッファロー経由のレイクショアーリミテッド号でニューヨークへ、フィラデルフィアへは、シンシナチ、西バージニア横断のカーディナル号、ワシントンDCへは、ピッツバーグ経由のキャピトルリミテッド号、そして南部ニューオーリンズへは、イリノイを縦断するシティ・オブ・ニューオーリンズ号、そしてニューオーリンズから、アトランタ経由のニューヨーク行きクレッセント号にも乗り込みました。 

 ごとごとと、たえず揺られる身体の振動を心地よく感じながら、持ち込んだワインを飲み、本を読む。目が疲れると車窓の風景を楽しみ、気が向けば、売店でビールを買って展望車へ。食堂車では、テーブルで居合わせた人と旅行者ゆえの気楽な会話を楽しみ、はたまたぶらりと見知らぬ駅に降り立ってみる。時には、後ろの座席のコンピュータから聞こえてくる映画の銃声にうんざりすることもありますが、車を運転しての旅行には絶対にない自由があります。見知らぬ多くの他人と、といって飛行機のような閉塞感のない空間をわかちあうからこそ感じられる、鉄道の旅独特の自己解放感−これがまたリンカーンさんのおかげなんですねえ。リンカーンさん、まるで奴隷解放宣言だけを書いていたように言われるのは不本意なのでは。(笑) 

 リンカーンは、本当は、奴隷解放なんて考えていなかった。でも、どうしようもないところまで追い詰められたから、仕方なしにやった。でも、若いときから、これだけはどうしてもやらねば、と自ら強い信念をもっていたものがあります。それが鉄道です。 

 リンカーンが、大統領になるべく、政治家として先見の明があったというべきは、国の経済発展のためには、全米の交通運輸網を充実させねばならないと、若いときから考えていたことでしょう。だから、23歳ではじめて州下院議員に立候補したときも、地元を流れるサンガモン川の河川交通の改善を訴えたし、弁護士になってからは、鉄道会社数社の顧問弁護士として多くの訴訟を扱い、鉄道の利権を守りました。選挙戦で忙しかった1859年にはすでに、太平洋岸に達する鉄道の建設が国にとって最重要課題だと考えていたようです。 

 そして1862年7月。南北戦争で何かと忙しかっただろうに、リンカーンはパシフィック鉄道法案に署名しました。その結果、ユニオンパシフィック鉄道会社が設立されて、ネブラスカ州オマハから西に向かう線路と、カリフォルニアから東に向かう線路の建設競争が始まりました。ついに、二つの線路がユタ州で合流した大陸横断鉄道の完成は1869年ですから、リンカーン自身は自らの夢の実現を見ていません。 

 でも、「本能的にモールス電信の効果を認識」し、「コミュニケーションの機微をよくわきまえていた」(内田義雄著「戦争指揮官リンカーン」88ページ)リンカーンは、新しく建設される線路沿いに電信柱も建て、線路とともに電信網を拡張、毎日ワシントンの戦争省電信室に朝から晩までいりびたり、前線の将軍たちとコミュニケーションをとって、戦争を勝利に導きました。さすが、リンカーン、ころんでもただでは起きませんねえ。(笑) 

 鉄道が西にのびていく時代を描く西部劇では、駅でモールス信号を打って、アウトローの動向を連絡する駅員が登場します。連絡が来ると、“鉄道仕事人”がさっそうと列車に乗り込んできて、列車強盗とどんぱち、正義はいつも勝つ。。。(笑)そんな“鉄道仕事人”が、シカゴのグレースランド墓地に眠っています。アラン・ピンカートンです。 

 スコットランド生まれの社会革命運動家で、アジテーターだったピンカートン。よっぽど“鉄道”と“裏の仕事”が好きだったんでしょうね。(笑) 

フォックスリバー近くのダンディ(Dundee)に住んでいた時代から、ピンカートンの自宅は、逃亡奴隷をカナダに逃がすアンダーグラウンドレールロード(地下“鉄道”)の“駅”でした。川沿いにシカゴへ、湖を渡って、ミシガンからカナダへ逃げるルートがあったのです。

 当時、奴隷の逃亡幇助は重罪でしたから、これはピンカートンの裏の顔です。表の顔は探偵で、警察の仕事を手伝っていました。よっぽど“スパイ”が性にあったんでしょうなあ。(笑)見込まれてシカゴの警察の仕事をするようになったのが1850年ごろ。まもなく自分の探偵事務所をもち、5人の探偵を使うまでになります。 

 歴史上に名前が残ったのは、1861年2月、スプリングフィールドから列車で大統領就任式に向かったリンカーンを警護、暗殺から救ったとされるからです。リンカーンがペンシルバニアまでやってくると、列車がボルチモアを通過するときを見計って暗殺という情報が飛び込んでくる。すぐにピンカートンは、フィラデルフィアのホテルにいたリンカーンに報告、その夜、ハリスバーグからワシントンまで別の隠密列車を仕立てて、リンカーンをワシントンへ。ワシントンで列車を降り立つリンカーンには、トレードマークの山高帽の代わりに、柔らかいウールの帽子をかぶる変装までさせました。さすが、プロのスパイの気配り。。(笑) 

 ピンカートンが偉いのは、個人的には、保守的なリンカーンを嫌っていたのに、きっちり仕事をしたことでしょうか。無事にリンカーンをワシントンまで送り届けて、ハリスバーグに打った電信メッセージは、plums delivered nuts safely。ピンカートンがプラムで、リンカーンがナッツ(バカたれ)というわけ。ド根性だあ。(笑) 

その後、E.J. アレン大佐という偽名で、南部の情報を探るスパイになったりするものの、すぐにシカゴに戻り、自分の探偵業に精を出すようになります。時代が彼を必要としていました。無法状態の西部で、銀行や鉄道ビジネスを守り、国の発展に尽くす。。リンカーンを理解するようになっていました。 

 ピンカートン探偵社では、探偵は報奨金のために働くことを禁止され、また離婚や個人的復讐は扱わなかったとか。社訓はWe Never Sleep。 

 私の次のアムトラック旅行は、シカゴから西へ、太平洋岸のオレゴンまで、ほぼ2日2晩、眠ることなく走り続けるエンパイヤービルダー(Empire Builder) 号です。おお、「帝国の建設」号ですか。「エ・ン・パ・イ・ヤー・ビ・ル・ダー!!」 リンカーンの勇ましく張り切った声が聞こえてきそうですねえ。(笑) アメリカという国の「野性の呼び声」かもしれません。



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