多佳子さんのイリノイこぼれ話

著者略歴 デイ多佳子

神戸出身。滞米生活21年目を迎えたフリーランスライター。カリフォルニアはバークレーに始まり、サウスダコタ、イリノイと東進して、いよいよイリノイ生活が一番長くなりました。シカゴ・イリノイ大好き人間です。最新刊「観光コースでないシカゴ・イリノイ」(高文研)が日本全国の書店、及び在米日系書店、アマゾンで発売中。

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                          白い奴隷制 


 White Slaveという言葉を初めて見たとき、ふ〜〜〜ん、と、思わず首を傾げてしまいました。奴隷といえば、アフリカ系のことではなかったか。。白い奴隷って何。。。記事のタイトルも「白い奴隷とは誰か」です。社会主義フェミニストだった金子喜一と結婚したジョゼフィーン・コンガーがシカゴで発行していた「ザ・プログレッシブ・ウーマン」1913年4月号に掲載された記事です。記事を読むと、「奴隷といっても、いつも白いわけではない。黒いのもいれば、小さく黄色いのもいる」とあります。さらに読み進むと、「白、黒、黄色、女のみならず、男の奴隷もいる」とまであります。100年近く前に、男の奴隷にまで言及するとは驚きです。

 私自身は、拙著「大きい女の存在証明」(彩流社)で、男が女に「おまえのような女は売春もできない」とは言えても、女が男に、「おまえのような男は買春もできない」とは言えないのが日本の男社会だった、と書きました(4ページ) 私がまだ20代だった1970年代の日本のことですが、今で言うところのセクハラを内面化させて生きた私は、「奴隷」の世界へは、憧れの気持ちもまじる屈折した奇妙な思いを今だに抱いています。(笑)

 ベストセラーになったカレン・アボット著「Sin in the Second City」を手にとったときも、あの「憧れ」が頭をもたげていました(笑)。舞台は20世紀初頭のシカゴです。12ページに「白い奴隷制」が次のように叙述されています。「(女は)近隣の村々に出かけていって、シカゴの魅力と可能性を語り、13歳から17歳の少女たちと戻ってくる。服をぬがせて、6人のプロの“強姦人”といっしょに一室にとじこめる。それから少女たちは、年齢と容姿によって、別の女たちに、一人50ドルから300ドルで売られていく。」

 年齢と容姿、そして13歳。。犯罪組織がヨーロッパで少女たちを誘拐、シカゴまで連れてきました。ああ、アフリカからの奴隷ではなく、ヨーロッパからの奴隷たち(悲)1880年代には4000人弱だった「奴隷」たちが、30年後には3万人を超え、宿の数は1000以上、フルタイムの「奴隷」は5000人以上、1年に1600万ドルー今日の3億2800万ドルに相当ーの利益を上げた「白い奴隷制」。東西南北に伸びる鉄道各社のハブで、右も左も分からぬ外国人移民が多かったシカゴはその中心地だったのです。

 “小さく黄色い”中国女性も「白い奴隷」に。もちろん日本人も。シカゴ南部、クラーク通りとステート通りにはさまれた21、22番街あたりに、中国人や日本人女性が集まった店が二軒ほどずつあったようです。アボット曰く、「“オリエンタル”たちは、シカゴの厳しい冬がしのびがたく、“仕事中”も毛糸の長い下着をはいたままだった」(13ページ)

 ある秋の一日、宣教師のアメリカ人女性たちが日本人の店を訪ねてきました。仕事がなかった女性たちは、道に面した部屋の一室で、裸足をハイヒールにつっこみ、きゃしゃな指でビールのグラスを握っていたとか。聖書を渡しながら「クリスチャンですか」と尋ねるアメリカ人に、女性たちが応じた言葉は「Why-er-wot you want to know?」「How’d you get in here?」(109−110ページ)

 シカゴに、全米一と評判が高く、アメリカ全土から金持ちを引き寄せた超高級クラブがありました。サウスディアボーン街2131−2133番にあった3階建ての建物、エバリークラブです。“オリエンタル”たちの店からはブロック一つ東の通りです。

 クラブは50の部屋を持ち、どの部屋も香水がたちこめる重厚で贅沢の限りを尽くした“宮殿”でした。シルクのカーテンとオリエンタル絨毯、鏡張りの天井に囲まれ、現代なら40万ドルはする金張りのピアノやバイオリンが奏でる音色を聞きながら、プルマンのダイニングカーをイメージした部屋で、マホガニーのテーブルで250ドルのシャンペーンを飲み、金の縁取りがされた食器に銀のナイフとフォークで、キャビアやロブスター、キジと600ドルのグルメを楽しみ、
複雑精巧な彫りに覆われたチークの家具が所狭しに並び、金色のシルクのベッドが目を射る「ジャパニーズルーム」で一晩過ごせば最低200ドル、今の貨幣価値で5000ドルはかかったというクラブに遊びに行ける人はどれだけいたのだろうか、普通の人が1週間に6ドルを稼ぎ、ビールが1杯10セントだった時代にだよ、と現代の貧乏人は首を傾げますが、いつの時代にも、どこにでも、お金の使い道に困る大金持ちはいるんですねえ。やっぱりシカゴですねえ。(笑)

 たとえば、1902年3月、弟であるドイツ皇帝ウィルヘルム二世が注文したヨットを引き取りに来たプルシャのハインリッヒ王子なんて、エバリークラブが訪米の目的だったそうです。文筆家が稼ぐ印税がそんなに多いとはどうしても信じられないのですが(笑)、詩人のエドガー・リー・マスターズや文学者のドライサーも常連客だったとか。夕食だけでもOKだったそうですから、パトロンといっしょに来たかなあ。。(笑)

 1905年11月、シカゴを彩る大富豪、マーシャル・フィールドの37歳の息子、マーシャル・フィールド・ジュニアは、エバリークラブで撃たれ、5日後に死亡しています。どうやら偽名を使って、クラブにはしょっちゅう出入りしていたらしい。2年前の春にも豪華絢爛ぎらぎら「ジャパニーズルーム」で、女の子を侮辱して撃たれ、床に血だらけになって倒れたものの、一命をとりとめるという“活劇”まで演じていました。食品大手のスウィフト社の御曹司、ハーバート・スウィフトも、クラブの女の子と外出の約束をして、ミルウォーキー行きの列車の中で死亡しています。親が大成功して、湯水のように使えるほど遊ぶお金があるのも、何かと大変だなあ。。(笑)

 改革主義者たちの努力で、「白い奴隷制」禁止法が成立したのが1910年。クラブが閉鎖されたのが翌1911年10月です。法は、奴隷制のみならず、“不謹慎な理由”で、女性を州境を越えて連れ出すことまで禁じましたから、なんとこの“不謹慎な理由”で訴えられた人の中には、ダブル不倫旅行をしたフランク・ロイド・ライトやチャーリー・チャップリンがいました。ああ、ピューリタンの国、アメリカよ。。。(笑)

 ところで、エバリークラブで働くことができた女性は25歳未満とのこと。ああ、30年前の日本でわが身に刻み込んだ“クリスマスケーキの女”法よ!(笑)

 冒頭の記事は、性意識や賃金格差などに喘ぐ女性の存在自体を「奴隷」と呼びましたが、“クリスマスケーキ”法をくぐり抜けた東と西の女たちよ。。「奴隷解放」は今や“今昔物語”となったのでしょうか。

シカゴのかつての赤線地帯を訪ねました。チャイナタウン駅近くです。100年ほど前、男と女の抑えきれない、生々しくも空虚な欲望が渦まいていただろうあたりは、今はきれいな芝生の緑の広がりにとって変わり、16階建てのモダンな円形の建物が建っていました。アフリカ系の高齢者用アパートです。そこから、東へわずか5ブロックほど歩くと、マーシャル・フィールドやフィリップ・アーマー、ジョージ・プルマンと、シカゴ三大富豪のものをはじめとする大邸宅が次から次へと並んでいたサウス・プレーリーアベニューにぶつかります。時には、夜の闇にまぎれて、こっそりと大邸宅を抜け出し、ご近所さんのエバリークラブに向かっただろう富豪やその御曹司たちの後ろ姿が、100年後の女の目にぼんやりと浮かびました。どちらの世界も“天国と地獄”だったのでは。。(笑)

 「白い奴隷制」禁止法は、1986年に改正されて、「男の奴隷」も保護対象となりました。“天国と地獄”のあいだで、日々翻弄される「奴隷」たちのさまざまな闘いは、まだまだ続いています。


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