多佳子さんのイリノイこぼれ話

著者略歴 デイ多佳子

神戸出身。滞米生活21年目を迎えたフリーランスライター。カリフォルニアはバークレーに始まり、サウスダコタ、イリノイと東進して、いよいよイリノイ生活が一番長くなりました。シカゴ・イリノイ大好き人間です。最新刊「観光コースでないシカゴ・イリノイ」(高文研)が日本全国の書店、及び在米日系書店、アマゾンで発売中。

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キャサリン・オレアリー


 シカゴの歴史を少しでもひもといた方は、1871年にシカゴで大火事があったことはご存知でしょう。 36時間ほど燃え続け、市の中心部を焼き尽くし、10万人が家を無くし、少なくとも300人がなくなったという大惨事です。

 でも、物事はすべて両刃の剣で、大惨事のおかげでその後シカゴでは建設ブームが起き、のちの経済的繁栄の礎となりました。 1995年の阪神大震災のときも、建設業界に携わる友人は、「あ、これで景気がよくなる」と思わずもらしましたから、物事は見る人の視点、立場で大きく変わるものです。


 この大火事の発端が、キャサリン・オレアリーの納屋でした。 10月8日夜8時半ごろ、南西からの強風が吹く夜、キャサリンさんが納屋に持って入った火のついたランタンを、彼女が飼っていた牛がけっとばし、その火が納屋にあった干し草に燃え移ったとか。。 

 ちょうど今の290号線と90・94号線が交差するあたり、デコーベン通りにあった納屋から出た火は北に広がり、夜中すぎにはシカゴ川を越え、2日後の10月10日の朝にはフラートン街まで燃えたものの、雨のおかげでやっとおさまったとのこと。 

 二万近い建物が燃え落ちた大火事ですが、なんと驚いたことに、キャサリンと夫パトリックが住んでいた木造の家というか小屋は燃えなかったのです。 風向きが違うとはそういうことなんでしょうか。

 家は焼けなかったけれど、もちろん二人は評判を落としました。現代の多民族文化尊重主義とは縁がなかっただろう当時、アイリッシュは酒飲みだの、馬鹿だのと罵詈暴言が思いっきり投げつけられただろうことは十二分に想像できます。どんな思いで生きたのでしょうか。日本人なら耐えきれずに。。という結末も十分に考えられる「風向き」のわざです。

 ところが、その評判を落としたキャサリンさんたちのお墓がいやに立派で、これまたびっくりしました。 まるで市の名士並みに立派なのです。 墓は、シカゴ市の南、ブルーアイランド近くのマウントオリベット墓地にあります。

 キャサリンさんの納屋は、今でこそイリノイ大学シカゴ校があって再開発が進んでいますが、当時は東や南ヨーロッパの農村出身の貧しい移民が集中して住んでいた大きなスラム街の一角です。 スラム街に住んでいたけれど、やっぱり歴史に残る大火事を起こした有名人だから、こういう立派なお墓があてがわれているのかな、とか首を傾げながら、ちょっと調べてみました。

 そしてわかったのが、これだけ立派なお墓を建てられる資金の出所です。 「ビッグ・ジム」と呼ばれた息子のジェームズさんが、これまたスラム街のど真ん中、ホールステッド通りで酒場を経営、なんとシカゴのギャンブル王だったんですね。 なるほどと、墓の大きさを納得しました。


 墓石によると、キャサリンさん夫婦は大火事のあと、四半世紀も生きたようで、それはそれで大変だったかなあ、と日本人としては思いました。                                                                                  キャサリン・オレアリー 1895年7月3日死亡68歳、

パトリック・オレアリー 1894年9月5日死亡75歳

ジェームス・オレアリー 1925年1月21日死亡 62歳

アンナ・オレアリー 1948年10月9日死亡 80歳

 アンナさんって誰かなあ。。 ジェームスさんの娘かなあ。。 アル・カポネがニューヨークからシカゴに移ってきたのが、禁酒法が実施された1919年。 アイルランド系とイタリア系のギャング抗争の時代、ジェームスさんもきっとアル・カポネと接点があったに違いありません。 殺されたかなあ。 立派な墓石の前で、しばし思いをめぐらしました。ある夏の午後のことです。

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